薄いべニアのパーツを切りだして、自立訓練事業所の時間で作ったショベルカー。こういうのは、ほんとに進化したと思う。
げんちゃんの本質的な問題は、色々ありますが、言語の問題は、やはり、本質をなすものだと思います。
意識をつかさどるもの、それは言語です。
どんな事象も、心の様も、言語がなければ、動物と同じ、情と言うものの発動で終わると思います。
げんちゃんが自閉症、と診断されず、自閉症スペクトラムと診断されたのは、とりあえず、幼児の時に言葉を発していたからです。
しかし、彼の言語の問題はとても深刻だと思います。
言語能力は、ほんとにひどかった
それでも言語能力は、高校卒業直後より、ずいぶん伸びています。
今日は、家で算数の問題をさせました。げんちゃんは、算数がもっとも鬼門でした。(今は、小4年から6年のものを、色々させています。)
今日は、小学校4年生の図形の問題をやらせてみました。
算数を言語化する
最近の私は、単に算数をさせるということではなく、算数を自分の中でどう言語化し、理論的に考えられているか、ということに焦点をおいています。
4年の算数、基本的な問題なら、そこそこの点数を取れます。一生懸命やろうという気持ちが入っている時なら、8割以上・・・(単純な基礎問題ですが・・・)
やる気がない時は、半分とかいうときもあります。同じ問題でも、あるときはまったくできず、ある時は正解します。
やる気のない時は、めんどくさいという、げんちゃんの本性がさく裂しているので、思考の経路もめちゃくちゃです。まったく関係ないどころか、どうでもいいものを持ってきて、問題にぶちこんでいく、まるでそんな感じです。やりながら、自分の立ち位置さえわからなくなります。
今では、やってるスタイルだけ見ても、気持ちを入れてるかどうかは、私にはよくわかりません。
だれの目にも、真面目に思考しているようにしか見えないからです。ただ結果に天と地ほどの開きがあるので、推測できると言った感じです。
IQはあてにならない。
げんちゃんは、気持ちを入れる度合いによって、IQ55あたりから80、ごくまれーに90あたりをさまようとS先生は言います。高い方の能力が、本来潜在的に持っている能力だと思います。
抜けているときは、思考過程を言語化させてみるとよくわかります。文章のつじつまがあわず、主語と述語さえばらばらになります。適当な感覚だけでやっているのです。点数だけつけてやっても、こういう破綻をあぶりだすのは不十分です。
問題集の横に、大学ノートをおいて、答えを出していく途中の経過を、すべて言語化させます。1問にすごく時間はかかりますが、単に解けばいいと言う目的ではないので、こなす量はあまり関係ありません。私は、これを”算数国語” と銘打っています。
角度と時計の問題をやらせました。
彼は、その解法を、文章におこします。
「30分は180度になる。
①(問いの角度)は、180度になってない。だから360÷60をして、6度で2分目の所になるから、6×2=12になるので、180-12=168度になる。」
わけわからない。でもこれなんて、気持ちが入って、かなりマックスの方です。すさまじい時間をかけて、もっと気持ちの悪い文章ができます。主語と述語がつながらないとか、ふわふわしまりのない、宙に浮いた言葉。聞いていても、まったく映像が浮かばない、霧の中のような言葉です。もちろん、回答もめちゃくちゃ。
たとえば、図形の問題なら、その長方形から、とか、前でやった手順を踏んで、三角を二つ合わせて、それでできた長方形を、大きな長方形から引く、というような、複雑しかも的確な言葉が全く存在していないのです。
めんどくさいことは、ことごとく海馬にエンジンをかけない。
指導するのも、気持ち悪くなる!海馬を動かすのが、ことごとくいや、そんな感じがよくわかります。つながりをつけて物事を考えることから、すぐに逃げる。逃げるから、いっこうに海馬が育たない。やれやれ。
そのくせ、ごまかすことや、逃げること、かなりうまく言い訳を考えたり、かっこつけたりするときは、なぜか頭がするする動く。IQがもっとも高くなる瞬間です。
でも、こと算数だったりすると、「45を360から引く」というのを、「45で360から引く」、とか、「45に360から引く」、とか、突然書いたりします。気持ちを入れてないから、なんとなくスーッと流してやってます。しっかり腑に落ちていない。腑に落ちてなくても、まったくとんちゃくなし。
しっかりつかみたい、と思う気持ちが希薄
もっとしっかりつかみたい、と言う思いが希薄だと、めちゃくちゃな言葉の構築でも気にならないようです。逆に言うと、その言葉の紡ぎ方がおかしいことを指摘すると、そこから逆に自分が腑に落ちていないことをつかめることもあるでしょう。
なぜ?それはどういうこと?どうしたらもっと早道でいけないか・・・だったらこうか?
などなど、私たちは、物事に取り組む時、内部で、言語が躍っています。
そういう意志を持っているからこそ、言語化をすすめていけるのです。
げんちゃんは、その意識が弱く、わかりたい、わかったら楽しい、そういう思いが希薄です。
とくに算数はそうなりやすい。
あらゆることを、きちっと、言語化させてみることは、意識の改善にも、言語の練習にも役立つと思います。心がうまく出てきても、的確に出力する、ツールである言葉の力がないと、自分自身の思いをしっかり捉えることもできません。
まるで、1周まわって、また言葉にいきつく・・・
そんなところを、また取り組んでいるげんちゃんです。
まあこれも、やっと今、算数の基本も、言語の力も、昔より、ついてきたおかげで、こういう指導に入れているんだな~と思います。遅すぎますが、一歩一歩進歩はしています。
IQの高めの子でも、発達障害は言語の洗い直しは必要なのではないか
げんちゃんのような子に限らず、ある程度基礎能力のある発達の子でも、言語の洗い直し、というのは、必須だと思います。
意識のトラブルは、ある意味、言語のトラブルとなっているからです。
単純なありがとう、なんていう言葉さえ、ほんとの意味でわかってなかったりすることがあります。語彙の少なさが、心の幼稚さを生んでいたりもします。とにかく、言語とは、心そのものなのかもしれません。言語をしっかり獲得することで、精神の成長が望めると感じます。
やっていくと、そもそも基本の言葉の使い方さえ、認知できていことを発見するに違いありません。
1周まわって、いつも言葉に戻ってくる発達障害なのかもしれません。
公開コメント 承認後公開