先日、げんちゃんは、K先生に指導されて、その日の一日日記を書きました。小学生レベルですが、昔より、ましになってます。
その日は、学校で、友達に少しいじられて笑われたようです。めったにないことで、げんちゃんの心が動きました。
最近、やや人間になってきたげんちゃんは、相手の笑いの中に、多少ばかにした気持ちを感じ取ったのでしょうか。
「いやだった。」
というのが感想だったようです。実際聞いてみれば、たいしたことでもなく、げんちゃんが、友達の誘いにのって、ユーチューブのあるセリフを言わされた。ただそれだけ。最後、まわりが一斉に笑ったので、もしかして、ぼくちょっとばかにされてんのかな~。という心の動きがおこった。
しかし、そのことを文章にして、自学ノートに書いていたものだから、それを見た学校の先生が過剰に反応してしまって、相手の子に尋ねて指導してしまいました。
やれやれ・・せっかく、げんちゃんの心が動くようなことがおこったのに、少しはバカにされて、げんちゃんが奮起する材料になったのに、そこで終わってしまいました。
げんちゃんは、先生がいろいろ聞けば、いやだったとか、憂鬱だった、とか、その場の思い付きで適当に言葉を並べるようですが、それは、自分の心を見つめて言っていることではありません。ほんと、乗り・・・です。
ですから、普通の子のそれとはまったく意味が違います。
さらに、げんちゃんが、それでショックをおこしたり、過剰にいじけたりすることはありえません。
げんちゃんという子は、深く考えるために頭をめぐらすぐらいなら、めんどうだから、さっさと捨てて忘れちゃえ。
という選択をする子なのです。
繊細な子は、「くよくよしてもしかたない。捨てよう。」と思っても、そうそうできるものではないですが、げんちゃんは、あっさりそれをやってしまえる子なのです。頭使うくらいなら、捨ってよ!
気持ち悪くなるくらい潔い。
だから、彼の心には何の圧もかかりにくい。どれだけこっちが苦労しているのかわかりません。
今回のことは、多少でも彼の心が動いて、奮起する可能性をはらんでいたのですが、しぼんでしまいました。
先生と電話でお話したのですが、そういう文言を読んだ以上、学校側としては動かざるを得ないらしいです。やれやれ。今どきは、いじめがいけない、というのがあまりにも先行して、少しくらいのことでもナーバスにならなきゃいけないのでしょうね~。
社会に出れば、悲しいけれど、多少のいじめなど、実際にはあるわけで、ちょっとくらいの友達との小競り合いは、学ぶ必要があると思っています。
とくに、自分はなんとかなると、漠然とした自信が邪魔をして、突き抜けないげんちゃんには、今回のような、友達のアクションは、ありがたいにつきます。
少なくとも、げんちゃんの教育に対して、もっとコアなところがわかっているのであれば、こういう出来事を、彼のために上手に心に落とす言葉かけはあっただろうな、と思います。
普通の先生にそれをお願いするのは、酷というものかもしれません。げんちゃんの意見を主体に動くと言うのは、3歳児の言うことを真に受けて行動するということに等しいくらい、無謀だと思っています。げんちゃんは、まだまだハンドル操作のでたらめな車と同じで、やっとけっこう走るようになったけど、思い付き気の向くままのハンドル操作しかしません。それを前面に押し出すのは危険そのものなのです。
誘導車両が前に必要です。本人の意向に沿ってなどということは、まだまだ早い、ということがわかっていない。
守破離の守・・・とにかく、正しい方法に従わせる・・・・そこからなんだよね~。
なぜ、自分がちょっとばかにされたのか、自分の立ち位置は実際どこなのか。自分を自分で見つめて、メタ認知させることがどれほど難しい子たちなのか。それがわかっていれば、今回のことは、とても良い教材になったはず。
K先生が作文を書かせたとき、げんちゃんに問いただしたら、げんちゃんは、まったくけろっとしていました。捨て去ろうとしてるので、慌てて、色々指導したそうですから、びっくりです。
ほんと、げんちゃん教育の難しさを痛感します。正しい視点での協力者、というのがいかに得にくいものか、思い知ります。
「誰がそう言ったの? それはいけない、次に何かあったらすぐに言いなさいね。」
こういう指導は、げんちゃんにはとても危険なのです。
PS,そいういえば、中1くらいだったか、たまたま行ったカジュアルブティックで、トレーナーを選ばせたら、S先生に指導されたことを思い出します。”そういうことでも、まだ彼に指導権を持たせてはいけない。”勘違いしてしまう。従うことを学ぶ段階だから・・・そう言われました。
なるほどな、と思いました。今は、ステージがまた違っていると思いますが、多くの先生方は、げんちゃんの言うことを聞きすぎるように思います。
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げんちゃん、自学ノートに書く(原因)→先生が、相手の子を指導してしまう(結果)ということは理解しているのでしょうか?
よほど苦しくて嫌なことであれば別ですが、それほどでもない、じゃれあいのようなものだったら、そもそも書いてはいけないような。
中学の思春期の子達だし、その子達もいじめでやった訳でもなく、先生から注意されてしまったら、今後のげんちゃんとの関わりが心配です。
今後、大人になるにつれ、ラインでの繋がりがどんどん増えていくことになると思いますが、書くということでどんな影響がでるのか、予測しながら書かないと予期しないトラブルにも巻き込まれてしまいそうですよね。
内容の詳細がわからない状態で勝手に想像で言ってしまって申し訳ありません。
文章のコミュニケーションって難しいですね。
難しいですね。
今は高校を見据えて準備を考えていますが、3年間なんてあっという間。その後社会に出るまで2年なのか、3年なのか、4年なのか??
正直短すぎて、その後どうなるのか検討もつきません。
学校はとても特殊な環境なので、障害のある子の権利を主張できたり、守られたりしますが、社会に出るとそんなわけにはいきませんよね。今から身につける力はなんだろう?とずっと考えてます。今からの世の中生き延びるのは普通の子でも難しそうですよね。
発達の子は「素のままでいたら馬鹿にされる存在」だということをシッカリと自覚しておく必要があると思います。ここがスタート地点です。
克服というところまで到達している方々は1度その地点に立っています。その認識のもとで、どう自分を改善していくか、ということを試行錯誤していく必要があります。
「馬鹿にする方が悪い」という風に刷り込んでしまうと、将来的には自分の身を自分で守れない人になってしまうでしょう。
一方で、馬鹿にした子にも人を馬鹿にしてはいけない!という指導も、もちろん必要ですが、今回はそちらの指導だけが、きちんとなされた形となりましたね。これだから、交流は支援級の子の親の自己満足と交流級の子の成長にしかならないと言われてしまうのです。このやり方じゃあ、げんちゃんが普通の子ごっこをしているだけになってしまうのですよ。
私は交流を支援級の子にとって本当に意味あるものにしなければ、交流なんてしない方がマシだと考えています。
先生方には「娘は兄もいるのでケンカもします。お互いののしったりもしますし、気持ちも弱くありません。それにこれから社会で生きていくには嫌なことも沢山あるので、これくらいのことはお電話で大丈夫です。仮にその子が娘に対しては差別的な意味で言ったのなら、支援級にいるからなかなか交流での活動がないから娘の事を分かってもらえていないのだと思います。娘の良さを分かってもらえる様な、クラスの中に娘の居る場所があるようなクラスになってもらえたら嬉しいです。」とお話ししました。げんちゃんが日記に書いた事で、げんちゃんの学校も大ごとになったのかもしれないですね。娘は嫌な事があったらまずうちで話します。なので内容によっては私が支援級の連絡帳に書いた上で、娘から先生に話をさせるようにしていますが、今は親が分かる範囲なのでいいのですが、先々人に騙されたり、事件に巻き込まれるたりするのではないかと。
自立を目指すには難しい事が沢山ありすぎて、どこまで娘が習得するのかですね。
みかんママさん
1年生のころ、自学ノートは、一行日記を書くように言われていました。その習慣で、K先生は、作文を書かせてみたようです。昔は、今日は、数学で○○だった、みたいな、単純なことしか書けなかったので、先生が何か動くということもなくて、その延長でやらせてしまったようです。
でも、結果的に、大きなことになってしまって、K先生も反省されていました。学校の先生も、K先生のもとで書いた、とは思わず、SOSか何かと思ってしまったのでしょうね。
でも、先生が動く前に、私に連絡をくださったので、無視してもらってよい、と伝えたのですが、だめでした。
普通クラスの子に指導したのであれば、げんちゃんにも適切な指導をしてもらったらよかったのですが。
「相手の言った内容が、知らないことだったのなら、それは何?と何故聞かないの?いつものめんどくさいが出てるでしょう! 自分のめんどくさいが災いしているだけでしょ!」
まあ、これが正解でしょうが、普通の先生には、そこまでの指導は無理でしょうね~・・・
確かに、普通クラスの子たちに、今後めんどくさいからかかわるまい、と思わせたのじゃないか、と思います。
ほんとに残念なことです。
ゆうママさん
ほんとにおっしゃる通りですね。
私は、先生方の前で、げんちゃんに、
「あなた、今のままだったら、将来、作業所に行くとか、施設に行くとか、そういう進路になるんですよ。わかっていますか?」
とわざと言っています。先生方は、そういう言い方を、すぐに差別、というようにとらえてしまうようなので、親がちゃんと事実は事実として、つきつけている、ということを知ってもらったらいいと思っています。
まず、現実を現実として、本人にしっかりとらえさせる、ということを、先生にもしてほしいと思うのです。ほかのおやごさんは、それを差別と感じるかもしれませんが、うちは、そうではない、と、理解してもらいたいのです。
事実を事実のまま、しっかりとらえるところからしか、目標も戦略も生まれないです。学校での指導は、表面だけ、きれいごとで固められているように感じます。
それというのも、支援の子のゴールは、どうせ、福祉の世界で生きていくのだから、とういうのがあるのかもしれませんね。比較的厳しい先生なのですが、そういう先生でも、そうなのですから、全体には、まったくできていないと言えるのかもしれませんね。