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職業訓練に力を入れている特別支援高等学校に行って、スーパーの生鮮食品売り場の裏方の仕事に就職した友達のお子さんがいます。
彼のことは、以前ブログで書いたことがあります。
公立中学の支援クラスから、高校に進学する段階で、就職に有利だからと言う理由で、お父さんが推して、その学校に入れました。
まだ、幼さが前面に出て、挨拶もろくにできない、ちょっとわがままな男の子を前に、私は、もっと、内面の教育や、基本的な生活スキルや学習を積み重ねていく方がいいのではないか、と思い、その学校にやるのを反対しました。
全寮制のその学校で、社会人スキルを鍛えて、障害者枠で就職する、という、一見外側を整えるコースは、けっこう対外的には人気らしく、倍率は定員を超えるものだそうです。
その子は、私の心配をよそに、高校時代、挨拶のしかた、集団生活など、親元を離れて鍛えられて、雰囲気は以前よりは、しっかりとなりました。
そして、スーパーにパート業務で就職したのです。
彼は、内面はそのままに、外側をなんとかしこんでもらって、社会に出たように感じました。
先日お母さんから、彼が、スーパーを首になったという話を聞きました。
ほんとにびっくりしました。
もしかしたら、期間満了で、更新されなかったのでしょうか。
理由を聞くと、コミュニケーションができないから・・・ということでした。表向きの理由か真の理由かよくわかりませんが、先方に言われたようです。
以前、お母さんの話では、
「パートのおばちゃんとも、話さなくてもいいから。言われた仕事だけを、やっておいたらいいから。」
そんなことを、上司に言われたと聞きましたから、なんとなく、話が違います。
やはり、お父さんの描いた、外側だけの物語は、もろくも崩れ去ってしまった。
彼は、家で、何もすることがなくなりました。福祉関係の何らかの場所に、時々通うことになったようですが、そこも、お母さん曰く、彼を伸ばしたり、また社会人として、継続して彼を支える場所ではないそうです。
お母さんは、急遽、仕事を変わりました。家を拠点にしてできる仕事にかえて、彼のサポートをする。というのです。どうにかして、彼をもう少し伸ばしたいのだそうです。
私は、なんとなく、後手に回っている感が否めない感じがしました。
そういうことをするなら、もっと前にすべきだったし、学校任せにせずに、彼をもっと成長させていくべきだったんじゃないか。
うまく言えないけれど、彼の自覚も全く足りず、家では、家族と対等にふるまう彼に、また、今回も家族が歩み寄る。彼がなぜ仕事を失い、今から自分の上にどんな困難がふりかかってくるのか。それをなんとかするために、自分はどのように生きていくべきなのか。そんな、普通なら、自分と向き合うという当たり前のことを、まったくしたことさえなく、ここまで来たのではないかと思います。
この年になるまで、囲われた社会の中で、自分の立ち位置を考えることも教えられず、このようなことが起こっても、あまりこたえてもない。
また、いつものように、家族が彼をかばい、母親は、自分の仕事さえかえて、自分にあわせてくれる。
彼は、また、誰かに感謝することもなく、やがていつのまにか、身の上におこったこのできごとを、何の考察もないまま、捨て去っていくに違いありません。
このできごとは、徹底的に、彼にとって検証され、向き合い、自分を見つめる手立てとして利用されるべきではないかと思いましたが、今までそういうことをされたことのない彼は、一足飛びにそこへは行けないであろうことも理解できます。
家族は、なんとか、彼を伸ばしたい、と言いながら、結局は、いつも避難所を用意する結果になってしまう。。
上手く言えないけれど、この子は障害があるから、自分たちが背負っていくのがあたりまえ。この子には責任はない、という感覚が、親御さんのどこかに、どこかにどっぷりあるのだろうな、と感じてしまいます。
私が彼を背負っていく、という潜在意識が、なんとなく、言っていることと、ちぐはぐな対処を生んでいるんじゃないか、
そう思ってしまうのでした。
私の中には、あまりそんな思いがないような気がしています。
げんちゃんの人生は、げんちゃんが、こつこつ努力して作っていくもの。それに必要な厳しさ、自分と向き合う姿勢。ベースとなる人格やスキル。そういうものを、厳しく導いていきたい、そう思っています。
実際のげんちゃんは、甘えの中にどっぷり存在し、自分をよく見せたり、自分と向き合うことを避けたりすることに、知恵の多くを使う。まだまだ人として基本のベースにも達していません。私が導きたい方向から、すぐに、逃げます。
だからと言って、ただ包み込み、抱きかかえてやるなら、彼はどんどん落ちていくと思っています。
障害児とはいえど、自分の人生は、自分にしか与えられていないのだから、逃げずに向き合って、チャレンジしていくべきだと思っています。自分の魂は自分で磨く必要がある。
私も、自分の魂を磨くことをおこたらず、魂は対等な立ち位置で、彼の努力すべき分は、肩代わりすることなく、応援をしながら、平行して歩いていきたいと思います。
私のげんちゃん育児の原動力は、そこなんだろうと思います。
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げんちゃんママさん
先のコメントありがとうございました!ハナの通う中学校は「支援クラスでは物足りない、一般クラスではちょっと大変」なお子さんをターゲットにしているそうです。はい、耳障りのいいキャッチフレーズの中学校です(笑)。
どんな中学校生活になるのでしょうね。
少しずつでも5ミリずつでも成長の階段を上っていって欲しいと思っています。
げんちゃんママさんの育児の原動力。文字にされてて納得です。そうですね。子どもは子どもの人生を生きる。私は私の人生を生きる。
突き放すということではなくて、親という字の如く木の上から見てる(だけでは済まないこともありますが、笑)。
最近は子どもが決めたこと、子どもと一緒に決めたことを守らせる、と言うよりも「守らせてあげる」事が親の役目でもあるかな、と思っています。なにせ、私も日々ブレる事もあるし、一緒に習う事になったピアノの練習も私は毎日出来てないし。ハナだけピアノを習っていた時は毎日ガミガミ「練習しなさーい!」と言っていたのですがね。
言うは易し、行うは難し、ですね。
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ハナちゃんママさん
コメントありがとうございます。コンセプトだけでも、そういう学校はほんとにありがたいですよね。そこで、しっかり伸ばせたらいいですね~・・
げんちゃん、パーフェクトではないですが、そこそこありがたい学校に入れてもらいましたが、それを生かせていないのは、あほな自分のせいです。ほんと、情けないことが続出です。
自分がなぜそういわれたのか、とか、まったく考えようとしない。困ったものです。
ずるいし・・
普通の子のずるいと言うのとは少し違う。自分自身からするりと逃げるずるさです。人としてひどすぎるので、しっかりそこを矯める・・・ひたすらそれです。
外側だけ、がんばってるを演出することに、自分は必死になっている。そこに気づければ、もっといくのでしょうが、外側を中身と思うようです。
なかなか手ごわいです。
でも、私のところに来たのですからしかたない。やるっきゃない、って感じですね。
でも、私の育児の的も、発達育児を始めたころに比べたら、はっきりと点になっています。私の人生は、色んなものがそぎ落とされてきている感があります。
げんちゃんですよね~・・・問題は(( ´艸`)
ピアノも、だんだん、そこに見出すものがかわってきますね。気持ちを入れて学ぶ、弾く。そういうことができると、とても伸びます。その前に、ルーティンになりました。げんちゃんは。先生も、そこから先は、なかなかです。それでやめました。習うのはピアノの技術ではなく、心なんです。最後は・・
当然、そんなとこには、まだまだいけませんよね。 2
げんちゃんママさん
技術ではなく心。奥が深いですね〜!
いわゆる普通の子ではない子育てをする事で、私がこれまで気づかなかった事を見たり聞いたり触れる事が出来ています。
うわっつらだけではない、人生の本質?みたいなものを考えたり。生活や考えがどんどんシンプルになっています。重ねた歳のせいもあるのかもしれませんが(笑)。
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ハナちゃんママさん
こういう子を育てると、ほんと、難儀です。
心と言うと誤解を受けやすいです。心の教育なんて、いい古されてますし、私の言いたいとことたぶん違います。
なんというか、的の真ん中をつかもうとする姿勢、というのがあってるのかもしれません。
ピアノだと、ある程度指が動けば、なんとなくやっていても、少しは引けるようになります。
的の真ん中をつかもうと、必死になってるか、なんとなくなのか。先生が見抜いて、指導してもらわないと行けませんが、外側がなんとなくできれば、まあいいか、になるし、この子の能力だったら、この程度かな➰、ということも起こります。
言葉にするにはむつかしいですね。
要するにこういうことだー、と言うことは、見いだしやすくなる母親業です。
たしかに奧が深い。
でも、いっこうに、げんちゃんは、ぱっとしません。自分がかわりたいという想いが、かるすぎます 3