ママの格闘と改善のダイアリー

自分の子が発達障害?
それって何? から始まった。

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げんちゃんの最近の絵画教室

 

写真が90度回転してしまいました。げんちゃんは、最初、ほんとにでたらめに描きました。でも、気持ちを入れるように指導したら、気持ちを立て直したのか、上手に描けました。きっと無理だろうな、と実は思っていたのです。

絵画教室のことを書きます。

11月だったか、成り行きで再開させたものの、あいかわらず、絵画教室に行くと、落ちてしまうので、やめさせた方がいいと思い、先生と話しました。


先生の指導不足と言ってしまえばそれまでですが、げんちゃんの指導は、誰にとっても、ほんとに難しくしかたありません。

先生のプライドを傷つけないように、いろいろ指導法を提案するのは至難の業、やんわり、あれこれお願いしていると、

「やはり、私には、げんちゃんの指導は無理かもしれませんね。」

と先生が切り出されました。私は、逆にちょっとほっとして、これでやめることができる、と思いました。

ところが、事体が急変しました。先生が言われました。

「実は、私は、げんちゃんの指導を、どこを目標にしていいのか、悩んでいたんですよ。」

先生は、げんちゃんは、別に画家になるわけでもないし、障害児なのだから、とりあえず楽しく絵画を体験できればいいかな・・・そういう目標に定めていたようでした。
でも、私から、やんわりだめだしされてどうしていいのかわからなかったのだと思います。

しかし、先生が定めた目標での指導は、げんちゃんにとって、最もおそろしいことがおこります。ただ、楽しいことだけを選んでやればいい、というずるい気持ちを助長していくのです。

げんちゃんは、そういうところはとても賢くしたたかです。自分の間違った世界観や常識感が許されると思うと、感情だけを暴走させやすいのです。

障害があろうがなかろうが、正しいことは正しいし、努力しないといけないこともいっしょです。

なのに、絵画教室は、学ぶというより、楽しく過ごす、というだけになっているから、げんちゃんは、あっというまに意識を抜いて、楽な方におちていくのだとわかりました。

「先生の周りで、げんちゃんのような子が、それを克服して、自分の才能をしっかり発揮して、自分の人生を謳歌している人を見たことがありますか?」
「いいえ。」
「そうですよね。私も、そうそう見たことがありません。
つまり、げんちゃんがチャレンジしているところは、並大抵の努力では到達できないところというわけですよ。しっかり、努力して、神様からもらった何かをしっかり開花させるためには、大きなチャレンジが必要だってことですよね。

先生は、げんちゃんの絵をほめてくださいましたよね。(げんちゃんの色彩感覚など、よく先生はほめてくださっていました。)

 しかし、ただ楽しいだけでは、ほんとにそれを生かすことができるでしょうか。

 たとえば、ピカソが描いた、ぱっと見へんてこりんな絵は、実は、その下に、膨大なデッサンがあり、とてつもない努力が隠れていますよね。先生も、いつぞや、言われましたよね。描くのを一日でも休めば、筆力が、落ちてしまうので、私は日々書いて、勉強にも行く、と。

 しかし、げんちゃんは、指導者と言われる人は、もともとうまいんでしょ、くらいにしか考えていません。時々、絵画でほめられて、のぼせて、帰ってくるなり横柄になってますが、
すぐれた人でも、それだけの努力を日々しているということには、まったく思いがいたりません。

自分よりずっと上の人でも、相当な努力をしているのであれば、それより低いげんちゃんは、なおさらしっかりやらなければなりません。
絵を描くことは、この子にとって遊びではないです。真摯に学んで、それを通して、正しく生きることを学ばねばなりませんし、彼の中に芸術の才能があるなら、必死でそれを開花させないともったいないです。

私は、げんちゃんに、先生が、今でもどれほど努力されているか教えました。げんちゃんは、真摯に努力することから逃げて、表面だけ作ることをスキルアップさせていますから、そういうことでは、人間としても成長しないし、絵だって素敵にはならないよ。とも言いました。」


そのようなことを私が話すと、先生がみるみる変わりました。

「お母さんの真摯なお気持ちがわかりました。私は、美大を目指すお子さんも徹底的に指導しています。私もプロです。げんちゃんにどんな目標をもって、教えていいのかよくわからないでいましたが、今日のお話でよくわかりました。これからは、げんちゃんにも、しっかり絵をやる意味を教えていきます。
デッサンや地道なスケッチは、スポーツ選手で言うなら、基礎のトレーニングです。
この基礎部分をしっかりやらないと、将来奇抜な絵で人目を引いても、それは一瞬です。げんちゃんには、しっかり基礎から教え込むようにします。」

先生の絵画に対するプロ魂は本物だったようです。げんちゃんへの迷いが吹っ飛んだようでした。

 「げんちゃんは、抜いてしまうと、考えたり感じたりすることから逃げます。自分が楽しいことだけしか、気持ちを動かそうとしません。いやなことからは逃げるくせに、まわりが必死で引き揚げてきた成果には、上手に乗り、自分よりできない子を見下したりします。このようなげんちゃんのままでは、人間として大成しません。

 好き勝手できる楽しい絵画、ではなく、地道にきちんとつかんでいく絵のトレーニング。げんちゃんに必要なのはそっちです。
一見同じ絵の練習のようでも、まったく別ものです。気持ちを抜いてはできません。」

このやり取りのあと、先生がかわりました。げんちゃんを、ただ楽しくして絵画で遊んであげると言う感覚から、自分と同等の一人の人間として、育てよう、と思われたようです。

実は、昔、発達障害の子を教えたことがあったそうです。その子に挨拶をするように指導したところ、親がどなりこんできたようでした。
「うちの子は、障害があるんだ! そんな子になんてことを言うんだ!」

ということらしかったです。そういうことがあったので、げんちゃんへの指導をどうも、ためらっていた、ということもわかりました。

でも、実は先生も、障害児も普通の子も、守るべきモラルも同じだし、努力すべきことも同じ、とお考えのようでした。
 

美大を受験する子たちには、プロとしてプロ魂を教えていくと思いますが、その心意気で臨んでくださるようになったようです。意外な展開に驚きつつも、味方を一人得たような頼もしさを覚えています。これは、2月の初めの話です。線を引く練習や、立体をアイス棒で作る練習・・・スケッチをする練習。今は、粘土で、立体を作っています。
 どれも、げんちゃんには、なかなか難しいようです。でもげんちゃんは、楽しいようで、喜々として通っています。
毎回、先生が報告してくださるようになり、私は、Sさんのアドバイスを伝えたり、げんちゃんの様子を伝えたり、良い連携ができるようになりました。

あれほど、絵も工作も、何もくいつかないげんちゃんが、今では、絵画教室が楽しみなんて、不思議なものです。そして、以前のように、絵画のせいで、どかんと落ちるということが、あまりなくなってきました。(落ちないわけではないけれど。先生の教え方のせいではない。)

まずは、線を引く練習ももくもくとやったり、、先生の試行錯誤によって、げんちゃんだけの、特別メニューが与えられています。なかなかしたたかなげんちゃんは、ちょっと退屈なメニューになると、上手に抜いたりしてはおりますが、先生もだんだんそのあたりを見抜くようになって、アレンジしたりされているようです。

そんな中で、げんちゃんは、七田の算数で、透視図を描きました。6センチの箱の中に、3センチの箱がいくつ入るか、という問題を図にしたものです。たどたどしく、私の声掛けもあったものの、一人で描くことができました。

これは、私もちょっとびっくりしました。日々のドローン、週一の絵画、Sさんとの合宿、日々の努力。一つ一つが、げんちゃんを引き上げているんだな、と思います。

小学校の時、三角さえ描くことがままならないようなげんちゃんが、立体を描けるようになってきたわけです。すごいことだと思います。

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  1. robo_223 より:

    げんちゃんの絵、とても丁寧で綺麗に描けていて驚きました。意識が入ると、こんなにも力を発揮することが出来るという証明のようですね。

    しかし、おっしゃる通り、現在のげんちゃんは、楽しむだけでいい!という取り組みをして、ほめられてしまうと、意識を入れる習慣が身に付かなくなってしまうと思います。

    ですから、絵画の先生が方針を変えて下さって本当に良かったですね。専門的に絵画が学べるのもプラスになりますからね。

    しかし、知的障害者が美大に進学した例を美大進学の指導をされている先生もご覧になったことがないのですから、やはり、進学出来ないというのは偏見ではなく、それが単なる事実だという認識があるだけだと思います。1人でも、進学する例が出てくれば、認識は変わると思います。

    事実、美大に進学しなくても、絵で活躍している知的障害者の方は何人もいらっしゃるので、逆に障害があると何か才能がある場合が多いと思われている場合も多いと思います。

    ただ、知的障害者や発達障害者は全くダメな存在で役に立たない、生きている価値がない、というのは根拠がないので、偏見だと思います。そんな事実はどこにも転がっていないからです。健常者が全員すばらしい存在で役に立っているという事実も根拠もないのと同じです。

    どのような状態で生まれて来ようとも、その人の生き方によって、価値も良さも決まって来ると思います。障害者だから幸せになれないということもないと思います。事実、幸せに暮らしている知的障害者も発達障害者もたくさんいるからです。

    ただ、生まれたまんま、何も努力しないというのでは、なかなか、そういう状態にはならないと思います。障害あるなしに関係なく、その人の出発点から少しでも前進するように日々できることを積み重ねていく必要があると思います。

    そうすれば、障害があったままでも、ないままでも充実した人生が訪れると思います。現状に甘んじてしまうと停滞が起きます。水は流れていてこそ美しいのであって、流れが止まれば淀んで濁ってしまうのと同じだと思います。

    私達は障害のある子供を授かったおかげで、本当に多くのことを学ばせてもらい、おかげで淀んで濁ることなく、常に浄化し続けることが出来ていると思います。

  2. glow-gen より:

    ロボママさん
    >意識が入ると、こんなにも力を発揮することが出来るという証明のようですね。

    そうなんですよね~。意識が入って、しっかり焦点合わせをすれば、沈んでいた知識が紡ぎだされていくようなところがあります。しかし、それは、ほんとにおこりにくいです。

    今は、ただ表面だけをやっているような勉強だったら、やらない方がいいのでやめさせます。意識を覚醒させるために、大きな声を出すこともあります。それでも、のらりくらりすることもありますが、復活することも多くなりました。

    まだ、彼の実力の9割も出ていません。S先生は、彼らのほんとの力が発揮された時というのを理解していらっしゃるようで、
    「まあ、そこまでいけば、ぱっと、イメージで答えられた李してくるよ。」
    などと言います。私は、半信半疑ですが、こういう意識障害の子が、意識の力を手にすると、私たちより、すごいことをしたりするらしいです。
    まあ、それはおいといて、(ロボ君はそういうことがイメージできますよ~)意識を入れて、捉えようとする時間の持続時間が、少しずつ少しずつ伸びていけばいいな~と思います。
    知的障害のお子さんのセミナーなどに参加すると、指導者たちが、ひたすら、どうサポートするか、などに終始しています。この子たちの将来の図を、最初から、福祉と決めます。
    不思議と、そう決められると、そういう風になります。
     それは、意識ということのもう一つの側面でしょう。人は、自分の思いに縛られます。いかに、そういうしばりを捨てて、素直に、自分の思いに耳を傾ける必要があります。そのうえで、まわりをしっかり認識し、自分を分析する。そして、必要なものと、いらないもの、整理していくのです。
    いろんなことを決めていく必要があります。

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