ママの格闘と改善のダイアリー

自分の子が発達障害?
それって何? から始まった。

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発達障害、外側を見て判断できない。

 > げんちゃんを例えるなら、車の運転を例に出すといいかもしれません。

二人の人が、車を運転しています。一人は、行先もわかって、自分がそこへ移動している理由もつかんでいます。しかし、もう一人は、その人と同じ道を同じように走っていますが、行先もわからず、何のために移動しているのかもまったくつかんでいません。
 彼は道順と運転テクニックだけ、ものすごく訓練して、車を上手に走らせるようになりました。

 運転している車を外から見れば、二人はそうかわらないように見えます。運転していることについては、極端な違いはありません。

ところが、二人がちょっと道に迷えばどうなるか。目的も行先もわかっていない方は、あっというまにパニックになるか、とんでもない道を迷走してしまうでしょう。

 そうです。それがげんちゃんです。
 
 車を運転しているところだけに目が行く指導者や、げんちゃんとほんのちょっとしかかかわらない大人たちは、げんちゃんの本質と問題をとらえようとしません。
 それゆえに、上手に運転できているね。と励ましほめます。その運転技術が、前よりずっとよくなっていくものだから、君はほんとにがんばっているよ、と肯定感むき出しにげんちゃんに応対します。

 もしくは、そもそもこの子は、障害児なのだから、という区別意識が、どこかにある指導者やまわりの大人も同じです。げんちゃんへの違和感を感じたとしても、そもそも普通の子と違うのだから、彼が目的地がわからなくたって、運転しているのだから、この子にしては上できじゃない、とスルーします。 耳障りのいい言葉をげんちゃんに投げかけます。

 しかし私は、それらがげんちゃんに、はなはだしい勘違いを促すと感じています。私たちが必死で、目的をとらえ、意味を捉えさせようとがんばっているにもかかわらず、その圧から逃げる上等な口実になってしまいます。
 お母さん、僕はできるんだよ!

 さらに、げんちゃんの性質として、自分の立ち位置をほんとにとらえにくいということが挙げられます。前述の運転で説明すると、相手は、ただ、運転しているということだけを認めているのに、げんちゃんは、自分が普通の子と同じだと認められていると感じます。

 また彼は、自分というものを、いまだにしっかり捉えられていません。自分が捉えられていないのだから、周りのことなど捉えられるはずもなく、当然のように ”感謝” という気持ちが理解できません。だから、あらゆる場面で、”ありがとう”、と心から言うことはできません。教えられて、言葉ずらだけ言うだけです。
 それは、自分がおかれている立場、周りの愛や配慮、そういうものを一切感じ取ることができないということでもあります。漠然と自分が愛されていることを感じるかもしれませんが、それは、空気が暖かいくらいのことで、意識することもありません。

 げんちゃんは、自分自信の気持ちや状況さえ、行先のない運転のように、とらえどころがなく、いまだに、一瞬一瞬を動物のように生きているようです。

 目的や目標を、さらには、つながりと言うものをとらえるのがすこぶる苦手なげんちゃん。いや、正確に言うと、捉えようとしないげんちゃん。

今は、げんちゃんが意識をオンして、捉えようとすることを放棄しないように追い込んでいる・・・げんちゃんにとって、一番きついところかもしれませんが、そんなステージをすごしています。
そういう時に、

「運転ができてすごいね」

と褒められたりすることはほんとに危険です。勉強やお稽古事を教えられるからといって、むやみにだれにでもげんちゃんを預けるわけにはいかないし、会わせてほんのちょっとでも言葉かけされても危険な時さえあります。実際、遠方から来て、久しぶりに会った知り合いが、

「げんちゃん、成長したね~。すごい。見違えたよ! 今度僕たちは夏のキャンプをするから、参加しないかい?」
と、げんちゃんに対して、ほんとに対等な目線で言ってくれただけで、げんちゃんは舞い上がり、いきなり、その日一日、私に横柄にふるまう、というようなことがおきました。

 こんなことを考えると、よその障害を持ったお子さんに対しても、むやみな外交辞令はほんとにマイナスになることがあるので気をつけないとな~と思ってしまいます。その子がほんとに自立していけるようにと願うなら、ほんとにその子に必要な言葉かけがあるべきではないか、と感じるこの頃です。

最近時々習いに行かせている、知り合いの習字の先生に、今書いたようなことを力説しました。彼女は、げんちゃんは、習字の筋がいいとべた褒めしたりします。私が実際のげんちゃんの困ったところを話すと、

「え~、お母さんが高いところを目ざしすぎてるから、そう思うんだよ。げんちゃんは、将来なんとかなるよ~。」
と、よくある他人事をまくしたてられました。やれやれ。この手合いは多い!
しかし、指導者が真のげんちゃんの性質や心の状態を理解できなければ、ほんとに危険です。
親しい人なので、何度も電話で話し合いました。つい少し語調が強くなったりしてしまうのですが。失礼

「もし、ほんとに、げんちゃんのことを考えてくれるなら、むやみにほめることはやめて!。どこがどうよかったか、そして、それだけの力があるのだから、勉強だって君はできるんだよ。がんばりなさい。こういう風につなげてほしい。・・・」

 気の置けない知り合いなので、私も必死です。まあ、絵画の先生は、そこまで言える相手ではないので、休ませた、ということなのですが・・・さらに言えば、くもんは、教材だけもらっているのも、先生に会わせることが、危険すぎるから・・・笑

私が必要だと思うのは、行動の奥にある心をとらえて指導するということです。(とらえることは、難しい。だから、こちらの思いを、共有してもらえる柔軟さがあればいいかな。)
 決して普通の子には関係ないことではなく、指導する立場の周りの大人は、外側に騙されない、その子の心の状態つかもうとすることが大事なのかもしれません。ただほめればいいという、安易な指導は、おそまつそのものです。
 その子の心を成長させること。それこそが、”先生”なのかもしれませんね。永遠に私もげんちゃんと成長していかねばならないのだな、と感じます。

 

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  1. robo_223 より:

    げんちゃんママさんが書かれていることと、今日私が書いた記事の内容、実は根底に同じ考え方があると私は考えています。

    つまり、げんちゃんやroboには、その子に適した指導方法があり、その方法が取れない指導者につけてしまうことが成長のブレーキになるということだと思います。

    だから、私は勉強を外注せずに、ほとんど私が見て来たわけです。習い事も、全て付き添い、適宜指示を出したり、事前事後学習もさせて来ました。

    しかし、ここに来て、ある程度、指導者の質を選ばなくなって来たために、外注も可能だという状態にやっとたどり着いたというわけです。

    今のげんちゃんは、今後そういう状態になって行かなければならいのですが、そうなる前は徹底的に指導者のかかわり方を適切なものにする必要がありますね。

    私はそれを24時間体制で、約10年やって来ての今です。それでも、まだまだなので、本当に難儀なことだとお察しします。

  2. ゆうママ より:

    いやはや本当に難しいですね。
    車の運転のたとえはとてもわかりやすいです。私の運転がまさにそんな感じなので。運転することに精一杯で、それ以外のことに意識をむけてない状態ですね。ここで追い詰められたら、私は多分ダメですね。萎縮してしまって、運転すらしなくなってしまうかもしれません。

    息子への指導を振り返ってみると、厳しくした時の方がうまくいかないように感じています。これも人それぞれなんでしょうね。息子は繊細すぎるというわけではないのですが、厳しくすると逃げるか反逆してくるんです。けれども甘くしてはいけなくて、ぎりぎりのラインで指導していくということになります。

    厳しくして逃げるか反逆するよりは、多少舞い上がってもやる気をキープしてあげる方がましに感じることがあるのですが、どうなんでしょうね?
    げんちゃんは追い詰めてもマイナスにはふれないんですね。
    おっしゃるように、その子の心の状態をつかんで、その子の心を成長させることが大事なんでしょうね。なので、いわゆる発達障害の子には、こう対応しましょうという画一的なやり方はあてになりませんよね。とにかく頭をつかう子育てですね。

  3. glow-gen より:

    ロボママさん
    ほんとにそういみですね。ロボ君は、自分を顧みて、謙虚に人にたよることもできるようになって、ある意味完成に近いと思っていましたが、やっぱり、動き出しましたよね。

    これは、もともとのロボ君の資質でもあるかもしれないけれど、ママの導きが大きいですよね。どんなに、勉強ができても、どんなに良い芸術作品を生み出しても、やはり、人間としての部分が、欠落していたら、不幸です。

    人とのかかわりで人生は豊かになりますからね。自分の欠点を把握したり、人に対して謙虚な思いを持てること、これは、発達障害の子供たちにとって、最もむつかしくて、でも、何がなんでもやりおおせないといけないとこだと思っています。ロボ君はこれからが、とても楽しみだと思います。
     そこまでくれば、こんどは、才能教育を全力でやっていけばいいのかな~と思います。
     しかし、確かに油断は大敵です。天狗になってしまったり、自分の世界観だけにとらわれたり、落とし穴はたくさんですよね。
     ロボママさんの援護射撃はまだまだ必要ですね。

  4. glow-gen より:

    ゆうママさん
     お返事おそくなってすみません。
    まさに、100人いたら100通り・・・意識障害というところに焦点をあてれば、共通項は出ますが、同じ事象でも、心の状態をおっかけたら、各人それぞれだったりして、かける言葉も態度も、ぜんぜん違うということがおこってきますね。

    お子さんは、きびしくても、甘くてもだめなんですね。まさに、どの先生でも伸ばせるというお子さんじゃない、ということなんでしょうね。そうなると、どうしても、お母さんの負担大きくなりますね~。学校の担任はどうですか? 昨年より、お子さんにあっていますか
    でも、テレビで、さかんにたくさんの不登校児の話をしていました。それを考えると、げんちゃんもお子さんも、学校に行かないとは言わないので、助かるところもありますね。
    げんちゃんに至っては、学校に行かせないよ! は最高の脅し文句ですもんね~・・・

    げんちゃんは限界点は高いです。彼はほんとに図太いです。そこが長所であり欠点。S先生よると、足で踏みつけても、ぐぐぐっと足をのけてくる。笑 だそうです。だから、常に、おさえぎみに乗せないと、すぐに暴走するようです。

    謙虚さを身に着けるのがほんとに至難のわざです。まわりには、いい子思われるのですが、いやなかなかのつわものですよ・・・
    また試験期間です。今年はPTAもあって、目がまわりそうです~。

  5. とんまま より:

    げんママさん、運転の例えはよくわかりますね。
    行き先不明、目的もわからず、ただその瞬間だけを生きている…
    まさに、とんちゃんもです。

    ちょうど今日、この後面談なのですが、交流級(理科)へ授業に行く際、目的を持たせ、行く前と後に確認作業をお願いしますと言おうと思っています。
    ただ教室でぼーーっと座っているだけでは、全く意味がないのでね。
    折角の交流を意味のある物にしたいですし、とんちゃんにも意識を持って授業に参加してもらいたくて。

    そして立ち位置把握もしてもらいたいのですが、今の所、とんちゃんは自分を普通の子と比較するという、そういう考えすら出ていないという、それ以下の状態ですので…

    周囲を捉えようとしたり、自分が今やっていることの目的、意義はしっかり持てるようしなければなりませんね。

  6. glow-gen より:

    とんままさん
    とんちゃんの年齢だったら、まだ自分自分・・・という感じで、立ち位置も何もあったものではなかったですよ~。げんちゃん。

    今、げんちゃんは、あまり自分から饒舌にしゃべったりしないのですが、それを待つだけではなく、やはり、がんがん話かけるのがいいんだな、と思います。
     車で走っているときも、
    「あの花きれいね。なんの花かな?」
    「・・・」
    「確か○○じゃない。あれはどういうにおいか知ってる?」
    「いや・・」
    「あの花摘んで、誰かにプレゼントするとしたらだれにあげたい?」
    「え~?知らない」
    「誰かひとりきめるとしたら・・・お母さんは、そうだね、〇さんかな。」
    「〇さん? ああ、○○のことで来た人?」
    「あ、そうそう。覚えているのね。あの時げんちゃんは、××って言ってたよね。」
    「え?ああ、あの時すごく暑かった!」

    やれやれ、このあたりから、やっとげんちゃんのしゃべりに火がつく・・・

    けっしてあきらめずに、外側にベクトルを出させるというか・・・意識に働きかける。

    ひたすらひたすら、連想ゲームみたいに。空振りでもなんでもいいか、そうやって働きかけるのが大事なんだな、って、今思っています。
    あの頃は、できていたのか?
    たぶん、根負けして、怒っていたような・・・

    とんちゃんの時期は、今のげんちゃんとは違った大変さがありましたよね。

    交流級のことも、根ほり葉ほり、
    「今日の給食なんだった?
    誰が手をあげて発表した?
    隣の子の名前何?
    トイレ何回行った?

    聞いてやるのがいいですね。たとえ答えが出なくてイライラしても、ママの一人会話サーフィンで、体験が身になっていくでしょう。

    ママはほんと疲れますね。

  7. とんまま より:

    げんままさん、本当に問いかけ大変ですが、(芽が出なくても)決して折れる事なくやり続けるのが大事ですね。
    まだまだ芽が出ないですね…

    水曜日、ゴミ処理工場へ社会科見学でした(普通級と一緒)
    帰ってきて、色々聞きました。
    「今日行ったのは、何の工場?」という問いかけすら、答えられませんでした。
    もう、びっくりもありますが、情けない…
    勿論、前日に事前学習しているのにも関わらず。

    「車の工場?パン工場?」
    「何か物を作り出していた?」
    と聞くと、違うという事は分かっていました。

    「どんな機械があった?」
    「磁石で分ける」と。
    破砕したゴミを分別する機械のことが印象的だったようです。

    また、ゴミ収集車からゴミをピットに入れる所が好きなようで(物が落ちる様子が好き)断片的な記憶しかないです。
    まさに、色々な事が結びついていないのです。

    これでも、ゴミ処理場って事になかなか結びつかなかったです。
    ゴミ処理場という単語がしっかり入っていないのかもしれませんね。

    めげずに頑張ります。

  8. glow-gen より:

    とんままさん
    ごみ処理工場の話、よ~くわかります。
    え?そんなこともつながってないの?
    いまだにそういうことだらけです。
    さすがに、今のげんちゃんは、どこに行ったのかだいたいわかっているようですが、たまに、当然わかっているだろうとして話していると、え~っと愕然となります。
     第一時間さえ、まだまだまったく感覚がないのでは?と疑います。

    そして、げんちゃんは、上がったと思って安心しても、安定性がなく、どか~んとショッキングなことがおきます。

    まさにジギルとハイドみたい・・・意識が抜けると、つきものがつきやすい、と言うけれど、ほんとに、この子は、そうなんだろうな、とぉもいます。(笑)
     あの負のげんちゃんになると、こっちの神経もすべてすり減っていきます。
     げんちゃんの障害は、正しい常識感がついていかない障害。普通のひとが感じる普通の感覚が欠落した障害、そういうことなんだな~と感じます。
     勉強を覚えさせるとか、そういうこと以前に、まず、人間にしなくては・・・そういう感覚ですよ~。疲れますよね・・
     

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