2時間ちょっとで、なんとか夏休み帳2ページ
中1になって、新しくげんちゃんを週一教えて下さるユリ先生が、先日夏休み帳の数学と国語をさせてくださいました。
2時間ちょっとの間にげんちゃんがこなしたのは、数学の計算1ページ、国語の1ページでした。
終わって先生からの報告をお聞きすると、げんちゃんの計算能力は、5月の最初に、先生が当惑してどうなることか、と心配した時からすると、ずいぶん進歩して、希望の持てるものだったようです。
「げんちゃん、がんばりましたよ~。」と、先生は嬉しそうに、げんちゃんをほめてくださいました。先生は、週に1度しかげんちゃんを教えないので、1週間たつと、まるでステージがかわっているげんちゃんに、毎回、ちょっとした感動を覚えるのだとか・・・今回も、先週と違う手ごたえを感じたらしく、とても喜んでくださいました。
一つ褒めたら、全部できたと思うげんちゃん
「先生、確かに、げんちゃんは、そこそこ集中してやったのだろうと思うし、2ページ頑張ったと思うのですが、普通のお子さんなら、この時間に、たったこれだけしかできていない、というのは、手放しで喜べることではないんですよね~。先生、今日の各論をほめることで終わると大変です。げんちゃんは、それで自分は、普通の子と同じ目標を達成したと勘違いします。」
「なるほど・・・」
その後、熱心な彼女は、私の言い分をよく聞いてくださって、その意味を納得してくださいました。
つまり、
先生方に、この子たちの指導をお願いすると、まずは、取り組んだ課題を、集中してやれた、とか、先日の状態より改善している、とか、学習が伸びた、とか、報告を受けます。その日の課題のできがよければ、よくやった。達成したね、と言う感じです。小学校の5年生くらいまでは、これでよかったと思います。
でも、今のげんちゃんには、その指導ではちょっと危険です。
自分のいる立ち位置を、常にわからせるほめ方
たとえば、ある成績の悪い落ちこぼれ君が、進学校を目指すと意識改革されたとしましょう。その子は、まずは、小学校の学習の落としてしまっているところをステップバックしてやる必要がある。彼は、今までできてなかった小学校の課題に果敢に取り組み、それを理解することができました。 さて、彼についていた先生はどうはげますでしょう。「すごいね~。すばらしいね。がんばったね。」
それで、終わるでしょうか。たぶん、
「さあ、がんばった。小学校のところはわかったとして、さっさと次に行かないと、みんなは、中学の課題をがんがんやってるからね。」あるいは、「よくがんばった。この調子で行けば、中学の課題においつくことも可能だよ。でも、進学校に行くには、おいつくだけでもだめだね。皆をぶっちぎりにする必要がある。さらに、がんばっていこう!」
そうは言わないでしょうか。次につながるほめかたで、どんどん先にすすめていくのではないでしょうか。
ほめるときは、どこが次の目標か、最終目標はどこか示す
げんちゃんの学習は、病人にたとえるなら、昔は寝たきり状態でした。
横で看護する方は、とにかく、口に食べ物を運び、食べてくれたら、喜びほめる・・・その繰り返し・・・でも、今では、げんちゃんは、ベッドを置きだし、リハビリ室にやってきました。自立歩行をするために・・・・「歩けたね~・・・すごいよ。」それだけでは、げんちゃんは、リハビリ室をハイスピードで突き抜けることはできないでしょう。げんちゃんの最終目標は、競技場で走ること。ほかの選手は、すでに、グランド練習をしています。
・・・今日のリハビリはよかったよ。すごいね~・・・で終われば、絶対に、競技に出る選手にまではなれない。 そうです。げんちゃんがトライしているところは、リハビリ室にいる人が、陸上選手権に出るようなものなのです!(いえ、優勝するくらいのことかもしれません!) 自分で目標設定して、その目標に対して、今自分はどこにいる、という客観的判断をするなんて類のことが、最もむつかしいげんちゃんたちにとって、常に、その到達点と、自分の立ち位置を提示させる必要があります。
普通クラスの夏休み帳を、がんばったと褒められた。僕は、普通クラスの子とかわりがない”・・・平気でそういう勘違いをしてしまうげんちゃんです。
自分の立ち位置をちゃんと意識できるほめ方でなければなりません。
そして当然、大いにほめることも必要です。いや、ほめるのではなく、できたとこまでを認める、と言うほうが的確です。
「今日は、ほんとに計算がんばったね。前よりずいぶんできてるね。がんばればやれるってことがわかった? でも、普通は、この時間で、もっとたくさんやれるんだよね。げんちゃんはこれだけ頑張れたんだから、これからは、もっと早くできるように工夫していけば、皆に追いついて、抜かしていくのも夢じゃないよ~。今日は、ご苦労さん。」
どの先生も、まずは、課題をがんばれば、ほめる、というのをやります。当たり前のことですが、リハビリ室に来れたげんちゃんには、彼が掲げている最終目標を見せてあげながら叱咤激励しなければなりません。
多くの知的障害のお子さんのトレーニングは、どうしても、大きな目標を与えられず、こなせばほめる・・・といったものになりがちだと感じます。
知的障害なのに、よくがんばったね・・・こういうスタンスしかないことが多いのです。しかし、げんちゃんは、そこを目標にはしていません。げんちゃんも、今まで、大変な日々をがんばってきたのも、彼なりに、なりたい自分があるからなのです。ちなみに、学校でも、よくほめられます。支援クラスの子なのに、ほんとにがんばっているよ。というほめかたであるのがわかります。
先日、学校の親子面談に行った時もよくほめられました。(親子面談は残念でした。どちらを対象にしているか、お互い焦点がぼけてしまいました。特別な意図がなければ、親子面談はやめたほうがいいかも。笑) げんちゃんは、確かにがんばっているし、学校でがんばっているポーズを作ることもうまくなっているげんちゃんです。手放しでほめられていると、げんちゃんは、自分が普通クラスに行ける能力がついてきているのに、お母さんや先生が、支援クラスに入れてしまっているんだ・・・と、ついつい勘違いしてしまうように思います。
あくまでも、支援クラスなのに、がんばっているね。という意味合いだ、ということは、まだまだげんちゃんには、くみ取れない領域です。だから、今のげんちゃんに対しては、その場その場だけのほめ方は注意しなければなりません。リハビリ室に来たら、今度は、自立歩行を目標にしています。自立歩行ができれば、今度は競技練習です。
げんちゃんを応援してくださる先生方には、そこをお伝えする必要があります。
ずっとブログを読んでくださっていたというユリ先生、げんちゃんの手ごわさ、大変さ、いやというほど味わっておられるようです。感謝です。
追記
しかし、げんちゃんとは反対の、繊細で、悔んだり落ち込んだり、普通の子以上に、自分の立ち位置にこだわって、くよくよしてしまうようなお子さんのタイプなら、原則は同じでも、各論はもう少し、ソフトなアプローチを工夫しなければならないかもしれません。
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おっしゃる通り、一般のお子さんは、ほめられても、ほめてくれた人が自分のがんばりや存在を認めてくれたことを嬉しく受けとり励みにしますが、「でも、今の自分のポジションはまだ中の下くらいだよな。」という客観的な認識を持つことはできると思います。
でも、発達障害のお子さんの場合は、言葉通りに信じてしまうので、補足説明が必要だと思います。
私も、いくらroboが学校で良い成績をおさめても、学校の相対的なレベルからして、全国的には「これくらいのポジションなんだ」ということや、他のクラスメートは、全部自分で勉強した上で出している結果だから、roboの成績は自分の実力ではない、という2点を伝えています。
また、大切だと感じているのは、努力をした先の結果についても、客観的な視点をふまえた情報を与えなければならないな、と思うことです。頑張れば、どこまで到達できる可能性があるのかも、あまり非現実的なことを伝えると、これまた、割り引いて考えられないだけに、誤認してしまう可能性があるからです。
げんちゃんの場合も、具体的にどのような結果が得られるか伝えて上げた方が、事実に近い形で認識できると思います。
例えば、「2時間に2枚しか出来ないから、定期試験も半分しか終わらない早さだったこと」「もし倍速でこなしていたら、解答していたところの正当率が50%だったのだから、倍の50点を取れていたこと」「50点ならほぼ平均点なのだから、それこそ一般級の子とあまり変わらない結果を試験で出すことができること」などと伝えるのはどうでしょうか。
三段論法風で、もし理解が難しかったら、図にして教えるなどすれば、自分の目標に向けて、より具体的な頑張り方が理解できるのかもしれません。
参考にしていただければ嬉しいです。
こちらの公文に関して限って言えば、以前から、あまりげんちゃんの今のステージには合っていない気がすることをお伝えしていたと思います。著しくげんちゃんの意識レベルを下げる環境なのだと思います。問題行動や問題発言は意識レベルの下がった時に出ます。神様がげんちゃんを守って下さったのではないかと。
ロボママさん
アドバイスありがとうございます。具体的な目標、イメージする手がかり、あげてやるだけたくさんあげるのがいいでしょうね~。
あまりに高い目標、そして、あまりに低く想定する、がんばらなかったときの末路・・・
げんちゃんは、どんかんゆえに、どちらも、過剰なくらいイメージさせた方がいいみたいで、Sさんに、
「そんなに逃げるなら、はては、精神病院にはいるのかね・・・」とまで言われています。他のお子さんは、そこまで言わなくても、逃げ場をふさげるのかもしれませんが、げんちゃんは、とにかく、逃げます。
学校で、自分は、普通だ、ということを演出することは、とても熱心ですよ~。支援される身、というのも、極力かくしたがるし・・・・そういうことに、そこまでエネルギーを使えるなんて、あんた、ぜんぜんバカじゃないじゃん、と思ってしまうくらいです。
そこに使うエネルギーを、もっとまっとうに使えよ・・・ここはSさんも、毎回げんちゃんに教育するところです。
くもんも、ちょうど良い時期にやめさせられたと思います。彼にとって、グッドタイミング・・・
くもんの先生は、人間としてどうあるべきか、ということまでは教えられないタイプで、どうも、発達の子を指導するためには、指導者の人間力が問われる、ということが、最近よくわかってきました。
先生も、もう少しがんばって格闘されてみたら、もっと、指導力があがるのでしょうけど、投げ出しちゃいましたね~。
この子たちは、どうも、出会う人ごとの人間力をためし、成長させていく使命もあるようで・・・母親はその極みですよ。
私も、望んでなかったですが、ずいぶん、成長させてもらいましたよね~。苦笑
げんちゃんは、必要な時に、必要なかたが現れ、その使命が終わると、去って行かれますね。・・・
目に見えない力を感じます。
たぶん、げんちゃんだけじゃなく、障害を持った子をさずかるということは、チャレンジを言い渡されていて、それに全力でぶつかっていけば、必ず、必要が与えられていくんでしょうね。
正しい気づきを積み重ねていけるといいな~と思います。
返信ありがとうございます。
精神科の病院に入院するケースは、発達障害の人の場合、とても多いので、それは多少大袈裟とはいえ、事実に基づいていますよね。
大袈裟くらいの方がインパクトがあって良いので、大袈裟にするにしても、そのように、客観的な事実に基づいた形で、良いことも悪いことも情報を与える方がいいですよね。
発達障害の人って、皆何かしら才能があるんでしょ、なんて言われて、ちょっと違うと感じてらしたとげんちゃんママさんもおっしゃっていましたが、そういった荒唐無稽なことを言うのは良くないですよね。そういった言葉に振り回されしまう場合もありますからね。
大多数の人は、これといった才能はなく、とにかく日々努力を積み重ねていくしかない現実があるわけですから。でも、そういう努力が何らかの形で人生の実りとして得られている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
本当に私もroboを授かったことで、大変な思いもしますが、たくさん学ばせてもらっています。
ロボママさん
含蓄のある言葉ですね。
現実をしっかり見つめさせて、自分の障害特性もしっかり把握させて、それでいて、卑下することなく、コンプレックスで変な方に行ったりしないように・・・発達障害は、ほんとにやっかいで、指導する人間の真価を問われる育児ですね。
くもんの先生が投げ出してしまったことで、色んなことが見えてきます。
母親は、投げ出すわけにはいかないし、投げ出してしまえば、あとは、さらなる地獄が待っていると思います。
投げ出せないので、格闘するしかないので、成長するんでしょうね。
普通の子でも、ちゃんとした大人にそだっていくためには、大変なエネルギーと手間がいります。チャレンジしてみて感じるのは、明確な神の意思です。
いつか、子ども達が形になったら、同窓会しましょうね~。
公文の事やっぱりびっくりです。息子が通っていた公文教室は以前は畳に座って学習する教室でしたが、やりたくなくて寝そべっている子。先生に文句を言って親子ゲンカのようになっている子。それはそれは色んな子供たちがいましたが、辞めさせたという話は聞いたことがありませんでした。げんちゃんママが書かれているように発達障がいの子供たちを教えるのは本当に先生の人間力がよく分かります。まず交流級での先生の指導力を見たら『この先生は支援学級でもいける!!』(上から目線ですが。。)と分かります。私は先生を見る目が肥えてしまって(笑)支援学級に先生の配置をさせて欲しいくらいです。できる先生ほど私たち支援員に対しても心配りができて本当に人間性も素晴らしい方が多いです。支援学級の子供たちに対して特性を認める振りをして無理をさせず。。。でもそれは自分が1日何事もなく終わり、1年が無事に終わる為なんだと感じます。人間力のある先生は子供たちに向かっていかれます。そおいう気持ちは子供たちにも伝わると思います。母は強くなりますよね。私も人になんと言われようと『じゃあ誰か私と代われますか?』と自信を持って言えます。日々悩んだり、諦めたりもはしますが、結局逃げることはできないですもんね。娘も6年生は交流も支援学級も先生に恵まれて私もストレスが少ないです。中学校も以前の先生方が一掃したので雰囲気が変わっているようです。私は息子も先天性の病気があったので『なんでこんなに子供で苦労するのかなな。。』と神様を恨むこともありますが、この子供たちだったから色んなことを学び知り考え、私自身本当に成長できたと思います。
げんちゃんママ様
いつもありがとうございます。
そうなんですよね。息子はまだ5歳ではありますが、気を付けなければいけない点がよ~くわかります。
息子は少し自分で出来ることがあると「俺って天才!」とかベビーフェイスのお顔で活舌悪く言いますから、おいおいって思います。でもお友達のことも天才と褒めまくっているので(彼からみたら神ですが)自分のことを少しくらい自慢しても今は皆に可愛がってもらえているようです。
ABA的な療育を主にしていた私が親ばかとなり褒めすぎていたのが原因かもしれませんね。
幼稚園の先生は幼稚園の先生で今の現状に満足していらっしゃいます。
私から見たら問題ばかりの発達の子ですが、先生は息子の問題がどこにあるのかわからないようです。(発達障害がある割には)頑張っていますよっていつも言われます。
健常児と取り組み方が明らかに違うのですが、それに気づかれていないようなので、気づいていない人に難しい息子の教育は無理だろうなあと考えています。
幼稚園は集団に交わらせてもらう場と割り切って考え、彼の教育は信頼できるアウトソーシングと家庭を中心と割り切っています。
小学校はどうなのでしょうか。
支援級でも普通級でも彼のことを的確に見てくださる先生だとありがたいですね。
学校は幼稚園と違って先生と話す機会が少ないのではないかと懸念しています。
また教えてくださいね。
いつも拝見して多くを学ばせてもらっております。
「少し悪目の小1の子をたたいたり、先生をおどすような態度をとる」…。ここだけを聞くと、特性をわかっているつもりでも、こういうお子さんの気分(意識?)のムラは怖いな、と感じてしまいました(ご気分を悪くされたらすみません。私自身、特性を持つ子の親なので他人事ではない、という意味で、です)。我が子が小学校1年生で、この前まで園児だったという未熟さがわかっているだけに、そういう立場の子に手を出してほしくなかったと感じてしまいました(手を出す理由が彼の中にあったのだとは思いますが)。
「うちでは今後無理のようなので・・・」という先生の言葉に、他の生徒さんに対する責任のようなものも感じました。そこを含めて手に負えないと判断されたのかと推測しています。世間にはそう考える方が多いと思います。
今回の態度に関してげんままは何かしらの指導をされていると思いますが、本人にはどう伝えられたのですか?また
「げんちゃんに、このことを、上手に生かすやりかたが、まだよくわからない」とありましたが、その後の分析結果や対処法をブログ内で構いませんのでぜひ教えてください。
ここあさん
くもんの先生は、最初から、げんちゃんの自分の世界につきあいすぎてしまったようです。
一般的な言い方をすると、なめられた、と言うだろうし、発達障害の特性を知るものからすると、彼を、自分の世界に平気で行かせてしまった、ということになると思います。
自分のずれた世界観の中にひたらせることの怖さを感じます。いつも、彼のずれた世界にはいりこむことは、きちんとシャットアウトしていますが、まだまだ、油断すると、衝動性も出てきます。
正しい価値認識を、しっかりけじめをつけて指導する先生でなくてはなかなかむつかしいものがありますよね~。
確かに、支援の先生は実力がいります。勉強を通り一変教えられるだけの教育というのが多くの先生方なんでしょうね。こういうむつかしい子を前に、できるだけ、適当に、避けようとする方と、そこで学んで力をつけていく方、この子たちは、まるでそれを試すためにあるように感じます。親も、大いにためされていますよね。
神様を恨むことありますよね~。ほんとに。
でも、神の強い意志を感じるときもあります。
人生がより深くなることは確かです。
天国で、よくがんばってね~と。神様ににっこりされたいものです。笑
kariさん
幼稚園の先生も、異常に気付かない方がいる、なんて、息子さんずいぶん改善したのではないですか~?
もともと、意識がしっかりしたお子さんでしたものね。
kariさんの早くからの取り組みは、すごくがんばっていらして、どんどん改善していくにちがいないですよ。
さらに、ママが、細かく見られて、早め早めの対策をたてられておられるので、すごいと思います。
小学校は、幼稚園と、ずいぶん開きがありますね。手取り足取りは、かなり少なくなり、自立へむけて、どんどん後押しされていくように思います。
クラスの先生が、幼稚園のように、毎日レポートしてくださる、というわけではないので、学校に、行ってみたりすることも大事ですよね。
まだ時間があるので、できることをこつこつやっていくことが大事ですね。kariさんは、ちゃんとやられていると思います。
Xさん
コメントありがとうございます。
げんちゃんには、ストレートに、
「あなたがこうだったから、今日、電話でやめさせられたよ。」
と伝えましたよ。げんちゃんは、どこか、鈍感なところがあるので、過剰に。手厳しく伝えました。少しはこたえていました。
何の、前連絡もなく、突然電話で終わりです・・・みたいなのは、ちょっと常識外れです。でも、それが、世間ですから、げんちゃんには、良い薬になりますよね。
やめさせられた理由は、ただ、小学校1年生とのからみだけではないと思います。かねてから、扱いにくいことがあったのだと思うので、思い当たるところは、びしばし教訓にして、ことあるごとに、出して指導してます。
げんちゃんには、とても役立っています。
小学生も、もともと、向こうが、げんちゃんを気に入って、かまってきていたらしく、お互い様のところもあるそうです。でも、中学生という年の差では、やはりすべきではありません。
くもんでは、周りと自分は対等、自分は、普通にできている、くらいのおごりがあったようです。ふだんから、思いやりとか、謙虚さとか、なかなか普通のお子さんのように、簡単に入っていかないげんちゃんなので、良い薬にしております。
ちょうど、以前より、かなり、分別もましになってきたころなので、少しは思い知っているようです。
それから、発達の子は、衝動性というのが、普通より高いです。どんな時でも、理性を働かせるように、あらゆる方面から、しっかり教育する必要があります。
とくに、いつも言っている、正しい価値認識をいれてやることは大切で、神様の目に正しいことをちゃんとするんだ、という考え方で。ぶれずに、導いていくことが大事なんだな、と思います。