絵はうまく描けないと、描きながら、ストレス指数がどんどん上がります!・・・食べ物の絵は、ほんとに難しい・・・、描いてて、修正不能になり、途中で投げ出してしまいました!
子育てのシフトチェンジ
げんちゃんの外側部分での成長を感じる日々ですが、内面成長は、遅々としています。
それでも、以前は外側部分でさえ、相当手がかかっていました。今は生活の表面的な部分は、かなり楽になり、それとともに、母親の私も、自分の人生を大切にしたいという気持ちが強くなってきました。
同じ年頃の子を持つママ友たちも、子供たちの成長と共に、少しずつ自分軸へと意識が移ってきているように感じます。
一生懸命、この困難極まる子育てに向き合う中で、自身の成長を実感すると同時に、ここからの自分軸のステップアップは、内面的に、かなりいけるのではないか、という予感がします。
たぶん、一つの困難に、一直線に真剣に取り組んできたゆえに、いろんなことに動じない自分がいることを感じます。
再び絵を描いてみたりする時間
昔好きだった絵を再び描くようになりました。仕事で、説明用のイラストなどが必要になったりしたこともあり、自分で描けば目的ぴったりの絵ができて、案外探す時間も節約できるかも。と思ったのがきっかけです。
時々、このブログにも、自作の絵をアップすることがありますが、実は、描いているときは、楽しさや喜びよりも、理想通りに描けないことへの苛立ちの方が多く、趣味の時間がすごいストレスになることが多いです。
そんな時、イラストレーターの方に縁があって、たまに、絵を見てもらう機会に恵まれました。
彼女に、私のイラストを見せて、うまくいかなくてため息を吐いていると、彼女は、見事なまでに的確な指摘をしてくれます。その指摘が、いつもすごすぎて、感銘を受けます。
言語化することの重要性
彼女は、私がうまく表現できていない理由を、見事に言語化してくれます。私がストレスに満ちて、絵を描く間、悶々とするのは、なぜ上手く描けないか、私自身がわからないからです。
表現したいように表現できない、それはどこが原因なのか、どの部分をなおせはうまくいくのか、私はまったく言語化できないのです。おかしなことに、だめなことはわかりますが、なぜなのか、どうすればいいのか、一歩も進めないのです。
しかし、彼女は、なぞ解きをするように、的確な短い言葉で、的のど真ん中を言語化してくれます。
子供のころから、自分が陥っている、私の絵のだめなところ・・・・それは共通でした。それが、何十年も経った今、なぞ解きをしてくれるように、するすると言葉になって輪郭を表すのです!
人生で抱えていた、コンプレックス、行き詰まりの一つが、解明されたかのごとくの感動を毎回味わうのです。
物事を本質的に捉え、言葉にすることが、どれほど大切なのか、改めて感動を持って再認識します。
たとえば、
あなたの絵は、差し色の量が多すぎるんです。差し色というのは、5パーセント、多くてもせいぜい10パーセント以下くらにしておかないと、絵のメリハリが壊れてしまいます。中間色を使うべき所を、全部強い色にしてしまっているので、汚い仕上がりになって、強弱が薄れます。
そう言って、私の絵を見て、協調した色のどこを削って、こういう色にかえた方がいいなどと、細かくレクチャーしてくれるのです。
絵の先生が、すべてこうではありません。実際、私が子供の頃に習っていた先生は、私が絵を仕上げて見てもらうと、その絵に黙々と加筆するだけでした。そして次の生徒の所に行ってしまいました。
先生が加筆すると、確かに、絵は生まれ変わりましたが、次にはまた、私は下手な絵を展開することになり、どこがどう悪いのかさっぱりわからず、同じような下手な絵を再生産するのでした。そのうち、私は絵の才能がない、と絵に対する興味を失っていきました。
これは、本当に、育児においても、同様のことが言えるなと痛切に感じます。
げんちゃん育児は、問題と目標と手段、これらの的をしっかり正しく言語化できたとき、私は、前進することが可能になりました。
げんちゃんのモラトリアムと、私の立ち位置
しかし、ここへきて、私は、次に何をすべきかが見えて、しっかり言語化したとしても、残念ながら、私にできることは限られていると感じています。
結局は、げんちゃん自身が、自分の人生に本気で向き合い、努力するというステップで、躊躇し、逃げているので、そこからが進まないのです。
暗算が苦手だとか、進路が見つからないといった個別の問題も、もはや私が解決してやるには、抱える荷物が重くなりすぎて、私一人では運べなくなっているのです。本人が自ら立ち上がって前進しない限り、一歩も進まない。そんな感じになっていると思います。
私の役目は、その場からせめて逃げ出さないように、後ろに下がっていかないように、少しは圧をかけてやる程度のことしかできないのです。げんちゃんと言う物体は、重すぎて、私の圧くらいでは、数センチ動けばいいところ。
そこから突き抜けるチャンスは、すべてげんちゃんが握っているのです。
一人の人間として、一人の人間にかかわる覚悟
最終的に変わるのはげんちゃん自身であり、やれるだけのことはすべてしたと、みじんも後悔のない私です。げんちゃんに伴走しながらも、私の人生は人生で、げんちゃんに関係なく豊かにしていく段階にあることを感じます。
もしげんちゃんがこのまま変わらず、のらりくらり、ずるく生きていこうとするならば、彼には厳しい未来が待っているかもしれません。恵まれた環境を与えられ、親も全力で自分に向かってくれて、やれるだけのことをやってくれ、みごとな先生もご縁がつないでくれた。
それでも、人生を逃げとごまかしで過ごしていくのなら、その代償は、やがては自分が受けるのではないか。そうだとしても、それは自分が招いたことだからしかたないと、遠目に見る自分がいます。
神様の前にそれぞれが、全力を尽くしているのか・・・・きっとジャッジされる日が来るでしょう。げんちゃんのチャレンジする分を私が担う訳にはいきません。一人一人の人生は神様にとって、個別です。
私ができることはやり尽くしました。あとは、げんちゃんが自分の人生をしっかりと掴み、歩んでいくことを心から願うばかりです。私ができることはこれからも全力でやっていきますが、それもだんだん限られてきたと思います。
ほんとにすぐれたS先生からも見放されたとしたら、げんちゃんの未来は暗いでしょう。人として、本気で努力するとか、嘘で自分を飾るのではなく、素直にストレートに自分をさらけ出す、とか、人としての正しい道を真剣に歩んでほしいと、願うばかりです。
Takeko先生からのメッセージ
このことは、私だけではなく、言葉のレッスンをしてくれるTakeko先生も同様に感じているようです。コメントをのせさせていただきます。
【以下Takeko先生より】
発達障害を改善しようとするなら、ひたむきな努力が必要です。しかし、げんちゃんの場合は、そのスタート地点に立てていないので、まだ、発達障害改善プロジェクト前夜の段階にいると思います。
こうなってしまっているのは、障害とは関係なく性格の問題だと思います。ずっと前から、そう思っていましたが、それを、より強く確信しました。
つまり、2つの性質の影響です。
①自分を周囲に良く見せたい!という気持ちが人一倍強い。(強度の見栄っ張り)
②できるだけ面倒なことは避け、心を使わないという楽をしたい気持ちが人一倍強い。(強度のなまけもの)
どっちか1つなら、まだ、良いのですが、2つ共なので、非常にやっかいです。健常者が2つ持っている場合は、大した問題ではないのですが、発達障害を改善するという大事業を行う上では、大変な障壁となります。
まず、面倒くさがりなので、ひたむきな努力なんて、とんでもないといった状態です。さらに、自覚を促そうとしても、見栄が邪魔して自分の現在の課題に向き合おうとしないのです。
もはや、私の中では「げんちゃんの発達障害改善プロジェクト」ではなく、「げんちゃんの性格改善プロジェクト」となってしまっています。若いから変化も可能だと思うのですよね。
根本的なところでは、優しくて親切で性格はいいので、余計「おしい!」という気持ちになってしまいます。なんとか、発達障害を改善する段階に進んでほしいですよね。
以上
ほんとやれやれな息子ですね~。げんちゃんを見てると、能力よりも、素直で前向きな気持ちこそ大切とつくづく思います、障害は関係なく、人間にとって、最も大切なのはそれなんだな~、と再認識する日々です。
公開コメント 承認後公開
いろんな内容が含まれているので何にコメントしたらいいのかわかりませんが(笑)
すべて大きく頷きながら読ませていただきました。
私も割と前から自分軸にシフトしています。
私は息子の育児に格闘してる頃からずっと趣味の時間は持ち続けていました。
趣味がストレスになるってわかります!今はSNSもあるから、他の人はどうかなって見てみると、自分なんてまだまだ全然だわって思ったり…深く行けば行くほど自分の未熟さだったり、それで活躍してる人をみては落ち込んだりしてました。
また、仕事のキャリアもすっぱり諦めましたしね。
まあ想定外の人生でしたよね。でも思い通りにならないのが人生だと学んだし、成熟したと思います。息子が普通の子だったとしたら、私はもしかしたら弱い立場の人のことをまったく視野に入れない嫌な人間になってたかもしれません。
たけこ先生のメッセージを拝読するとげんちゃんはもっと変わっていけたら豊かな人生になるだろうなと思います。でも一方で、それでも幸せな人生は送れるのじゃないかなとも思うんです。
息子も一般の人が正解だとすると、まだまだ全然おかしなことだらけなんです。でもこのままで生きていける社会になってほしいなとも思っています。うまく伝えられないのですが…
けれども能力的に劣っているのは確かなので、そこをどうやって補っていこうかなと思っています。
私たちの子が障害を持って生まれたって本当にたまたまですよね。障害がなかったらげんちゃんって大らかですごく魅力的な子だったのだろうなと思います。うちの息子も。
切ないですよね。
語り尽くせない葛藤を通り抜けての今ですよね。
まとまりのない文章になりました。
でも息子を持たなかったら知らないことだらけだったと思います。
ゆうママさん
年齢もいっしょだし、ほんとステージは似たようなところにいるのかもしれませんね。
げんちゃんの能力が高くても低くても、とにかく、頑張って生きていこう、という素直さがあり、心で感じて考えていく生き方をしていれば、私はうれしいですが、彼は、精神的にずるく、素直ではないです。生き方も、刹那。生きてる、ただそれだけで、何とも思わない。
これはいけませんよね。
こんなクズ精神で、社会がもう少し、なんていうつもりはありません。ゆうママさんのお子さんは頑張っているんだと思います。そういう子は、やはり、社会が少し余裕があったらな、と思うと思います。
しかし、初めから逃げていて、チャンスを与えているにもかかわらず、上手にのらりくらりしているのは、良くないことです。人の生き方として最低です。
健常者、障害者かかわらず、だめなことはだめ・・・げんちゃんはほんとに困ったやつなんですよ。たけこ先生がリアルにかかわってくれるようになって、理解していただけるようになり、ありがたいです。
たとえば、心からしっかりがんばる、がんばりやさんの障害児がいたとしたら、たとえ、一見障害がひどいように見えても、その子の方がずっと人として上だと思います。
そう言う子になれば、自分の人生を切り開けていけます。げんちゃんは、その真逆。能力はあげてもらったのに、やる気がなく、自分がおかしいなどと、つゆほどっも思っていないのです。どこからその自信がくるのか~って、あきれ果てます。
ゆうママさんの趣味はなんでしょうか・・・でも、少しずつうまくなりたい、うまく表現したい、親の私たちでさえ、努力を続けているのですから、子供たちも、真摯に人生にむきあってほしいですね。
非公開Nさん
コメントありがとうございます。
発達障害の重症度は、一見見ただけではほんとにわからないと思います。
お子さんは、小さい頃は大変だったかもしれませんが、きちんと心が外に出ていて、それゆえに、振り回されることも多かったのかもしれませんが、成長すると、ちゃんと、自分をメタ認知することができるようになっていると思います。
このメタ認知というのは、成人して社会に出ている、グレーゾーンの人でも難しいものです。冷静さと、子供の頃から親がしっかり常識や正しいことを入れ続けてることが、まず望まれます。自分で何が正しいか、ということを獲得していくのは、普通の子よりかなり難しいので。そのままだと、ほとんどずれていますから。
お子さんの成長によりそい、正しいことをしっかり教えてこられたことが、自分を顧みて、正しい認識をするようになってきた原動力になっているのだと思います。
また、性格もありますよね~・・・謙虚さは、なかなかつきにくいです。もともと、自分のことを少し卑下して見てくれるくらいの性
方が、げんちゃんみたいに、ちょっとできたらすぐに万能感を感じるようなタイプより、うまく行くように感じます。
人様のおかげで・・・なんて言う思想は、なかなか発達の人には難しいです。そういう意味ではお子さんは、心の部分の深刻さは、軽い方だったのかもしれませんね・・・
いや~うらやましいかぎり!
しかし、それでもずれやちぐはぐさは、あるわけで、その分を、周りの人たちのささえで突破してけるように、謙虚さや、周りを思うやさしさ。そういうものを、どんどんはぐくんでいけたらいいですね。
マイナスが、やがて大きなプラスにかわっていくためには、まだまだ良いサポートがいるんだと思います。
わが子げんちゃんは、メタ認知どころか、悪いことが悪いと認識できていない、そういうステージなので、はるか遠い世界です~。(´;ω;`)
お子さんのステージに行くためには、まだいくつかのステージを踏んでいかねばなりません。