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「頑張った=成功」ではない。発達障害の”ずれ”は厄介

発達障害げんちゃんの失敗

げんちゃん、料理学校志望でやや成長が見られたものの・・・

げんちゃんは、料理学校を志望させるという一連の出来事を通して、やや成長したなとは思います。
やはり「来年の目標」を据えたことで、心が少し動いたのでしょう。
グループホームには入りたくないし、今のままの状態を続けることもできないと言う。だからこそ「料理学校に入りたい」という気持ちに誘導されたのでしょう。
もともと料理という作業は嫌いじゃないし・・
と書くと、げんちゃんは、専門学校へ向けて、日々邁進しているように思われそうですが、たまに気持ちが入った時の様子が、ましな時がある、程度なので、あしからず!

いつも成長は遅々なるげんちゃん――当然、発達障害という根本的で厄介な問題は、なかなか簡単には改善しません。

自分自身の、ずれた世界観への気づきがない

あいかわらず、あらゆるできことに、はさみ込まれてくる、げんちゃんの”行動や言動のずれ”は、私たちをふりまわしています。

彼自身が持っている“正しいと思う世界観”が、一般的な常識とは大きくずれているのです。
ずれているだけでなく、”「ずれていること」の認識”というものが、なかなか進んでいきません。

日々げんちゃんの本質指導をしてくださっている、S先生の言葉を借りて、げんちゃんの自己認識をしたためるとすると、
げんちゃんの自覚というものは、「もしかしたら少し違うのかな?」と、わずかに感じるときが出てきた―程度というのですから、げんちゃんの本質改善がいかに難しいことかわかります。

「頑張った=成功」という彼の世界観

たとえば、二軒目の調理師専門学校のオープンスクールに大遅刻をした時のエピソードもずれが炸裂していました。
遅刻は、世の中の常識からすれば大失敗ですし、そのことで、ていよく門前払いをくらったのですから、普通なら、相当落ち込んでもおかしくありません。
しかし、げんちゃんの場合、その過程で、「自分は一生懸命頑張った」という感覚があったのでしょう、その出来事を「失敗」とは捉えません。

彼の中では、「精いっぱい頑張った、もしくは、知らないところに苦労してたどりついた、という自分」が正しいのです。
その証拠に、帰宅した彼の第一声は「疲れた~」でした。
反省の言葉はなく、「頑張った」という実感の方が結論として残っているのです。

言い訳と論点のすり替え

こうした世界観を持っているため、対応は本当に厄介です。
たとえば朝、所定の時間に起きられなかったとき。
「目覚ましが鳴らなかったんだよ」と言い訳をします。

私が「そういうことじゃなくて、起きられなかったことを言っているのよ」と指摘しても、
「本当だよ、鳴らなかったんだって」とかぶせてくるのです。

論点は「起きられなかった」という事実なのに、げんちゃんは「目覚ましが鳴らなかった」という言い訳で置き換えてしまう。
そして自分の中で「頑張った感」があれば、結果がどうであれ「自分はよくやった」という結論になるのです。なんせ、頑張るという心の意欲がとぼしいげんちゃんは、ちょっとでもその感触があれば、大げさに、頑張った感に支配されるというわけです。

普通の人が「成果を出したうえで、頑張った」と感じるのに対し、げんちゃんは「頑張った=成果が出た」と短絡的に結びつけてしまう――本当に驚かされます。

発達障害に共通する「自分の世界観」

けれども、こうした傾向はげんちゃんだけでなく、多くの発達障害の方に共通しているように思います。
自分の世界観が社会では通用しないということに、なかなか気づけないのです。

客観的な視点を持たせることが、悲願ともいえる発達障害

ですから、げんちゃん育児の大きな目標は――

「自分の感覚は世の中では通用しないことが多い。常に修正が必要なのだ」と自覚できるようにすることです。
つまり、「もしかしたらこれは違うかもしれない」「自分はこう思うけれど、世の中では違うのかもしれない」という“客観的な視点”を持たせること。
最終的に、世の中の正しい常識感で生きていけるようになれば、成長もしやすいと思います。

考えてみれば、ある程度能力がついた今では、常識と、勝手な自己判断のギャップを埋める努力こそが、いま取り組んでいる教育の大半を占めていると、言ってもいいのかもしれません。

IQが高くてもズレは埋まらない

一般的に、発達障害の人たちはIQが高い人もたくさん存在します。
そのため、この”ズレ”を抱えたまま職場に入っていくケースも多いです。
外側の能力が高いので、一見気づきにくいのですが、やがて、その多くは、周囲を困らせてしまう結果となります。少なくとも、不協和音が生まれてくるでしょう。

私が過去に仕事を通して出会った「明らかに発達障害だな」と感じる人たちも、周囲がとても苦労していました。
彼らは、そもそもの「大前提」が普通の人とはまったく違うのです。まるで異空間の人のように。

愛される人と、傲慢な人の違い

過去に、私が出会った、発達障害傾向のある人たちの中にも、愛されていた人たちがいました。
そういう人たちは、自分の感覚を強く主張せず、注意されても「なんか違うのかな?」「自分が悪いのかも」と思う“謙虚さ”があったのです。なかなか、上手にフィードバックは難しいようでしたが、少なくとも、自分の世界観を強く主張することなく、自分が、あれこれもがいているようでした。

しかし、傲慢なタイプの人は危険です。周りのアドバイスもまったく振り切り、自分の世界観で、どんどん妄想とさえいえるほど、自分勝手な理論を展開していきます。
常に悪いのは、まわり。彼らの世界観では、自分は鉄壁の白なのです。

社会で生きるために必要なのは「ズレの自覚」

この――異常なまでの認知のずれ、常識感の欠如、論点のすり替え。
こうしたものを抱えたままでは、普通の社会で生きていくことは難しいでしょう。

IQを上げることも大切ですが、それ以上に、
自分のズレを正しく認知し、それをもとに行動できるげんちゃんを育てていくこと。

それが、これからの最大の課題だと思っています。

それにしても、調理師専門学校に、勝手にいれてもらえるくらいの感覚でいるのもおぞましいです。これもずれ。

正しく認知できていれば、もっと切実だろうし、もっと行動にも反映されますが、あいかわらず、行動に目的が見えないげんちゃん、困ったものですね。

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