久しぶりに絵を描きました。小さな頃のげんちゃんと二人、呆然と歩いている感じ。出口のない公園の中って感じですね~・・・深層心理が表れているのかも・・・
ゆるゆるのげんちゃんの学校
げんちゃんの学校は、秋休みに入るというので、今週はずっと昼までで帰ってきます。
そして来週いっぱい休校だそうです。
いつものことながら、この学校は、ほんとにゆるゆるです。それでも、げんちゃんは、夏休み前の英語のテストで、30点しか取れなかったから、補講があるといいます。
学校の先生の働き方改革とか、フレックス休暇とか、かつても、ゆる~いインフォメーションが届いてました。遠目に見ていると、手抜きしたい教師は、ここはやりやすいだろうな~と思います。実際、指導力もなく、あからさまに、手抜きの授業をする先生もいます。
この学校は、自由度の許されるサンクチュアリ、と位置付ければ、授業が少ないのも、自宅プログラムのためには助かります。
でも、自主性の弱い子で、家庭でも何もしてなければ、間違いなく落ちます。
この学校のパンフレットに載ってる、一般大学に進学したOB、専門学校出の活躍しているOBなどは、学校をけん引している、トップ何パーセントの子たちでしょう。
それに対して、げんちゃんなどは、自宅を中心に、しっかりプログラムを作って取り組まねば、あっという間に落ちていく、真ん中から下のメンバーなんだろうな~。
一つ一つの行動を、しっかり確認することが苦手な、発達障害
さて、げんちゃんは相変わらずの日々です。
一言で言ってしまえば、自分の一つ一つの行動を、しっかり確認するということが、なかなかできてきません。(認知力とは、気持ちの入れ方の問題だと思います。)
やりっぱなしということです。ルーティンをやりはするけれど、一つ一つ丁寧に、確認しながら、(気持ちをしっかり乗せながら)やらないので、雑でいい加減で、ただやっただけ、という結末が日常です。
Sさんが解説してくれるには、
「つながりというのは、一つ一つをしっかり確認するから生まれてくるんだ。一つ一つしっかり認識しようとしないげんちゃんは、つながりも考えないし捉えようとしない。その結果、ただ、行き当たりばったり、思い付き、そういうもので、暮らしている。」
ということのようです。なるほど、言い得て妙です。
(算数の文章題が、苦手なのもそれで説明できます。一つ一つの条件をしっかり捉えようとしないから、つながりまで行けない・・・文章題では、まず、一つ一つの条件をピックアップする訓練が大事です。・・)
げんちゃんは、少し成長してきた今でも、油断すれば、まったくつながりを考えようとしないので、常に目を光らせ、気持ちをしっかり行動に落とすように声掛けし続けています。
さらには、いまだに、物事に自らチャレンジしようしません。
6月から琴を習い始めました。
6月からお琴を習わせています。
彼は結構好きみたいなのですが、練習をしているのを見ると、やや難しめの曲は、最後にもっていって、時間切れでやらない、という有様です。
好きというけれど、チャレンジしようとするところとは、また別のようで、ほんとに、どこまでこいつは、だらけた性格なんかな~とあきれてしまうばかりです。表面は、家事もよくするし、勉強もします。・・・だけど、なんか、違うんだよね~
障害とかいう前に、げんちゃんの向上心のなさは、親とはいえど、ほんとに好きになれません。
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発達育児にゴールを見出だすことは非常に難しいと思います。一般の子育てでも難しいとは思いますが、ゴールらしきものぐらいは見出だせますので、大きな違いがあると思います。
もし、発達育児にゴールらしきものを見出だせるとしたら、それは、視点を親視点から子供視点に変えた場合だと思います。親が満足し、安心し、子供の全てを好きになれるような未来をゴールとして設定したとしたら、まぁゴールは全く見出だせないまま終了することがほとんどだと思います。それに対して、親ではなく本人が満足し、安心し、自分を好きになれるような未来をゴールとして設定した場合は、ゴールらしきものが少しは見出だせるかもしれません。
私はよく「アドラーの課題の分離のことを言っているのですか?」と言われるので、それでアドラーの課題の分離という言葉を知ったのですが、子供の課題はあくまでも子供の課題として、子供から分離するべきなのだそうですね。
つまり、子供の人生を子供の課題として、とらえる必要があるのでしょうね。そうした場合、あくまでも、その子の性格や能力、好みなどに応じて人生を展開して行くことを本人自身がやって行くということになると思います。しかし、それを子供自身が自己判断でやって行けない場合は、親が本人に代わって、それを判断して導いて行って上げる必要が出て来るので、結局それが、やっかいなのだと思います。
「課題の分離をしなきゃだから、勝手に自分で考えて道を切り開いて行ってね!」と投げ出せないために、親の視点が抜け切れず、なかなかゴールらしきものが見出だせないのだと思います。強いサポートはするけれど、視点は本人。しかも、本人に明確な視点はないから、それも親が本人目線になる努力をしなければならないのだと思います。
さらに、楽をしたり、ただ楽しいことをしているだけでは、本当の満足は得られませんから、コツコツ努力をして向上し続けられるようにも導き続けなければならないことでしょう。
こんな神のようなことをし続けることは至難の技ですから、それが出来ている方は希だと思いますが、諸先輩方の中には時々いらっしゃるので、頭が下がりますね。そして、げんちゃんママさんも、そのお一人になって行かれるのではないかと思っています。
げんちゃんママさん、こんにちは。
出口のない公園を彷徨っている絵を見て、こんなに豊かで明るい雰囲気であることに驚いてます。私自身はピークで大変だったとき、光も通さない真っ暗闇のトンネルの中にいるイメージを抱いていました。
できなくてもいいんですよね。成長するための経験を積んでいるのなら。
でも、そうではない。長男の生活に対する姿勢がげんちゃんにとても似ています。やっつけ仕事のその場しのぎ。本当にうんざりすることも多いです。だけど、様々な面での心配事が成長し改善されて、課題が生活管理だけに絞られつつあります。今、すごくピンポイントな指導となっています。
親とはいえど、好きになれない性質があるというのがよくわかります。私は今世の記憶が残ってるのなら、来世では子どもを産まないを選択するかもしれないとさえ思います。喜びも大きいし、産んで良かったとは思いますが、同じことを頑張るエネルギーはなく、それくらい大変です。この先10年20年経つと考えが変わりますかね。
夏みかんさん
手違いで、確認が遅れてしまって、返信がすっかり遅くなりました。申し訳ありません。
コメント読んで、確かに、この風景はそんなに暗くないかもですね~。
私には、木以外に見えるものがなく、閉塞感のある絵だな~と感じますが、色は、とりあえず、普通の緑・・・そうか~! 私は、どっかに行きつくだろう、くらいの感覚があったのかもしれませんね。
でも、発達育児というのは、ほんとにやばいですよ。
単純に知的障害の、脳性まひのお子さんが友人にいるのですが、常識感はばりばりつきやすく、能力をあげるだけで、かなり、いっしょにいても、頼りになる感じがします。
げんちゃんは、なんというか、人間になっていない感じです。
人間の形はしているけれど、中身が人間じゃない、でもまわりからは、人間と思われている。
SF映画の世界。周りからは理解されにくいですし。
母親が一人孤立して育てるようになってしまう場合もあると思います。
まあ、げんちゃんがこんなんだって、最初からわかっていたら、私も生まないな~・・・笑
神様、改善しない子なんだったら、とても迷惑なので、早く天国に帰してくださいませ~|、とよくぼやいていましたよ。
命与えたんだったら、神様責任とってもらわないと、人間の能力超えているでしょ。いくら親だといってもね!
そう、苦情を申し上げておりました。私はできることのすべてをやってんだから、あとは、作った神様の責任ですよ!
とねじこんでいたら、神様は責任感じるらしく、S先生を出してきたり、あらゆることをしてくれます。笑
やれることやってがんばったら、あとは、神様にねじこむ!
これは、良い方法ですね~。( ´∀` )笑
私は来世子供が欲しいと思うのですが、げんちゃんはいらないです~!!笑
ご褒美に、天使のような素敵な子が欲しいですね!
今期がんばっていれば、きっとそうなりますよ~。
Takekoさん
コメントありがとうございます。励ましてもいただきうれしいです。
ほんとにそうですよね~。子供の課題なのに、子供は、そういうことがまったくできない、どころか、感じたり、考えたりすることさえ捨てているのですから途方にくれますよ。
動物のように、ただ行き当たりばったり、その瞬間瞬間を生きているようなげんちゃんから、時間軸をもって、人として当たり前の生き方をするように方向転換させるのは、私一人でも限界を感じます。
それでも、S先生の指導もあって、少しずつはかわっていっているので、それを積み重ねれば、なんとかなるんじゃないか、と思ってがんばっています。
アドラー・・・私もざっくりですが、アドラーをテーマにしたものを少し読んだことがあります。なんだか、昔の日本人的だな~と思ったように記憶しています。人はどう生きるべきなのか、ということがしっかりしていると、子供にもそれを植え付けてあげればいいのかな、と思います。
がしかし、そもそも論がないげんちゃんなので、ことは大変です。
地面の上からスタートするのと、地下1000メートルからスタートするのと、意味が違う感じです。
やっと、海抜0メートルが、ある程度目の上に見えている、そんなところですかね~。
0点に行っていないことは確かです。
私の人生が終わる前に、岸を歩いてほしいです。笑
ゴールは、人になってほしい、笑
人になれば、自分の目標や生き方、ある程度自分で模索して行けるように思います。
人に言っても、なかなか理解してもらいにくいです。