げんちゃんの成長は、色んなステージを踏んでいます。。
まず、初めは、
まったくこちらとつながりのない世界に住んでいるげんちゃん。
言葉は出ていますが、独り言とさしてかわらず、こちらとかみません。こちらが、相槌を打ったりして、合わせてあげる。それによって、一見会話が成立しているように見えます。
4年生くらいになると、相槌くらいは打っていましたが、テクニックとして、やってるだけのことがほとんどです。こちらの言ってることの真意など、まったくつかめません。
次に、小学校の6年生くらいになってくると、そこそこ反抗期的なものが出てきて、自分の感情というもが出てきました。やっと。
この主張みたいなものを、”意志”と、周りは勘違いしますが、これはただ、動物の快、不快のようなもので、感情に起因する勝手な思いが原動力です。
それまでも、そういうものはあったものの、能力が低いので、幼子のように、しつけないといけないと思うだけです。しかし、世に言う、思春期の年齢になっていると、周りはすっかり、年齢相当の自己の確立ステップだと勘違いします。
しかし、げんちゃんの場合、ここで初めて、3歳児のような反抗期なんだろうな、と思います。
でも、中学の先生にしても、ついつい、混同してしまって、げんちゃんをのぼせさせてしまうことが多々あり、とんちんかんな指導に、時々辟易することがありました。
先生にしてみれば、まあ、他人だし、年齢も年齢だし、げんちゃんの意志を尊重して、なんて考えるのは、当然と言えば当然ですよね。・・・・。
先生方には、時々
「お母さん、もっと認めてあげて・・・」
的なことを軽々しく言われることもあって、やれやれと思いました。
発達君、しかも、意識がはなはだしく飛んで、自分さえまったくあやふやなげんちゃんでも、それなりにおとなしく授業を受けてまぎれていたら、私だって同じことを言ったかもしれませんよね。文句は言えませんが・・・
しかし、げんちゃんは、人並の思春期なんてまだまだ遠い世界、自分自身さえあやふや、どう感じるか、ということさえ自分ではつかみきれていないようなありさまなのです。肉体はそれなりに、不安定な時期を迎えるのでしょうが、心はそこまで、まったく行き着いていない。
自己確立に至る過程の思春期は、自分をとらえ、自分がどうしたいか、はっきりしてきて、だけど、それに自身も持てず、持てあます。そんなステージだと思いますが、げんちゃんはまったくそんなところにたどりついていないのです。
今となれば、前に、清塚信也さんのピアノコンサートで、げんちゃんをコンサート後のサイン会に出すべきではなかった、と、S先生が試適した意味がよくわかります。
げんちゃんは、ただ、興奮した熱狂的ファンのような、感情だけのWANT(やりたい、自分の思いをかなえさせたい!)を暴発させていたのだと思います。それを助長させても、冷静な真の部分の成長はできない。それどころか、感情のままに好き勝手にふるまっていくげんちゃんを作ることになると言うことだと思います。
洋服を買いに行った場合にたとえるとよくわかります。
感情を、自分の貴い意志だと勘違いする、というのは、こういう感じだと思います。
ブティックで素敵な洋服がありました。自分もそれがいいな~と思い、店員さんも、べた褒めしてくる。乗せられて、買うようなもの。
ほんとは、しっかり見極めて、自分を冷静に分析し、自分は今欲しがっているけれど、この洋服は必要ないし、ぜんぜん自分には似合わない、しかも、お金を今使うべきではない。
本来、その人の意思とは、表面の感情ではない。その人自身の人格から出てくる安定した心から出るものです。冷静に見つめ、奥にある自分としっかり向き合い、自分はどうしたいのか、これは正しいのか、と、吟味する力のあるものです。
こういう冷静な判断こそ、その人の奥から出る意志というものなのです。
恋愛もそうです。一時の感情だけで相手を選べば失敗します。感情、パッション、それらを、取り去ってなお、相手に対する思いやりや優しさなど、冷静な思いが、安定した関係を紡ぎだします。
げんちゃんたちには、後者を徹底的に植え付ける指導をしないといけないのです。
そもそも、その部分が皆無というほど育たたない子なので、感情を自分の大切な意思と勘違いして動くようにしてはいけないというわけです。
まだまだげんちゃんは、その延長にあって、心の奥底から、正しい思いが出てくるところには至っていません。
遠い道のりです。
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こんにちは。
思春期の年齢で3歳児の反抗期。
思い当たりますね。
11歳という思春期入口のとんちゃん、同じように感じることがあります。
周囲の同級生がどんどん大人びていくのを目の当たりにし、いつになったらこのステージにたどり着くのか、一生たどり着かないのではないか??と思ってしまいます。
やはり自己確立は難易度高いですよね。
エベレスト登山のようです。
感情を洋服購入とたとえて下さり、わかりやすかったです。
息子もその時沸き上がった一時の感情で生きています。
昼食を買う時の感情一つとっても、そうです。
(昼食メニュー選び。後でやっぱりこれは食べたくないとか言い出します)
このレベル(対物質)で躓いていますから、生身の人間(対人)となったら相手のある事ですし、そう簡単にはいきません。
安定した心がないと、しっかりした判断が出てこないというのは最もですね。
この子たちの心は不安定ですものね。
最近、時間になったら一人で施錠して習い事に出かけるようになりました。
駅まで徒歩、電車に乗ります。
しかし、朝学校へ行くのはチンタラしていて、おとといは登校班に置いていかれました。
(置いて行かれたほうが良いと思っていましたので、願ったり叶ったりです)
でも、何のダメージも受けていません。
翌日も今日も相変わらずチンタラ。
学校に行くのはどうでもいいというか気が向かないので、やる気が起きません。
片や習い事は電車に乗りますし、やる気満々。
完全に意識の差です。
嫌でも最低限意識を向けることは出来ないものですかね…
なるほど、本質的な自己意識と感情は別物なのですね。
ブログを読み、息子は多分、自己意識は生まれながら持っていて出方がバラバラなのかなと思いました。
生まれてからずっと息子の子育ては感情を整えることにつきると言い切れます。
生理的欲求である生まれながら持ってる感情、そこから複雑な感情が芽生え、様々な感覚や感情が統合されると高い意識が出てくるのだと思っていました。
とにかく苦しみをしっかり苦しめるようになど、感情をしっかり育てること、経験と感情と一緒に言葉を育てることが自分で考える土台になるのだと考えていましたが、お話からするとそのようにアプローチできる意識のベースがあったということになりそうです。
ですが、興味の有無や得手不得手などで意識の入り方がまるで違ってきますから、意識の入れ方が安定して自律できるように導くことは必要だと感じています。
とんままさん
とんちゃん、乗り物に一人で乗れたり、できることが増えましたね。
しかし、おっしゃるように、ルーティンに乗せた、と言うことだと思います。げんちゃんのできる、もルーティンに乗せただけ。ルーティンが増えたんですよね~。
その点の一つ一つを、次はつなげていく、と言う段階ですが、まったくやろうとしません。できない、というより、やろうとしない、というのが正しい表現でしょう。
今日も、ズーム授業は昼からもある、ということを電話してきたげんちゃん。
だから?
と言えば、お母さんに伝えようと思った。と言いました。その日は、書写などの予定があり、そのことをどうするか、的なことを言うべきでした。
だから何なの? と誘導して誘導して、やっと、つなげていく始末。
やればできるのに、ほんとにやろうとしない。魂を体から浮遊させて、平然としています。だから何なの?
僕には関係な~い。
めんどくさい、というのが本音でしょう。こいつの、このずるさは、最近ほんとに良く表面に出てきます。
自分で自覚できなかったのに、最近自覚しているんだと思います。成長と言えば成長ですが、傍で付き合う方は、激怒させられますよ。
ちょっとげんちゃんと付き合っていれば、げんちゃんのずるさはよくわかります。しかし、学校などでは、けっこう確信犯で、表面とりつくろって、まじめに、けなげに見えているようです。
長時間かかわれば、馬脚を現しますが、騙せるタイプもけっこういます。
感情さえおぼつかないげんちゃんが、やっと感情くらいは、育ってきたのかもしれません。
とんちゃんは、感情はげんちゃんより、けっこう表に出ているのでしょうか。表面意識(感情)、ほんとの意識・・とS先生は言いますが、なかなかわかったようなわからないような・・・S先生がいなかったら、私もこんな分析はできていないと思います。
先生の言ったことが、あとから、そういうことか~とわかることが多いです。
とんままさん
集団通学、おいていかれたことも、ちゃんと感じることができましたか?
げんちゃんは、とんちゃん年のころ、こっちは痛手をうけさせたくていろいろ失敗をフォローしなかったりするわけなんですが、まったく、そこでポイっと捨てていました。
相当ぐさっとくるようなことでも、あ、そう。終わり・・・ですよ。
こっちが力入れて説教師、厳しくしても、こっちが疲れてしまうだけで、本人は馬耳東風。
「あ、終わった?」
みたいな感じです。人がどんな思いでやってくれているか、とか、まったく関係ない、ですよ。
人としての部分は、ほんとに最悪なげんちゃん。それなりにいい子、に見えても、心は鉄のように固く何も感じない。ほんとに難儀ですよね~。 1
夏みかんさん
ほんとに、難しい部分ですよね。なんせ、科学者でもわかってない部分です。S先生は、科学者にも指導していたらしいので、どこからそんなものがわかるのか、私も不思議です。でも、一度もはずしたことがなく、その時わからなくても、なるほど~~と驚嘆することが多いです。
ただ感情をゆすぶるだけの表面的な感動と、人間の最もコアなゆるがないところの意識を揺さぶってくる感動をしっかり見分けて、音楽でも、映画でも、表面的なものは、げんちゃんに与えるなと言われます。
ディズニー映画は、ほとんどスルーするのに、アラジンは見に行くようになんて言われます。
確かに、情動的な映画と言うのは、その時はいいけど、なんか、時間とともに、そうまで深く入っていないこともありますよね~。
げんちゃんは、まだ、その(崇高な?)コアな意識がまだまだ殻の中に閉じこもっているような感じだとか。
ごくまれに、その意識優位で行動することがありmすが、年に数回あるかないか・・・
見分けることが、なんとなくできるようになりました。直近では、アルバイトの面接を終えて、スーパーで落ち合った時でした。目が違うし、なんか全然違うんですよ。
これなのか~。ほんとの意識が支配しているげんちゃんとは・・・と思いました。
ま、その日一日さえも続かなかったです。それからは見ていません・・・
ぐぐっと丹田に重心があるような感じというか・・・うまく言えませんが。
そこから、がんばる、と言う思いが出てくれば、げんちゃんはかわるよ、と言われます。
まだまだ、そんなところから、ほんとの思いが出てくるのは、先のようです。
お子さんの場合は、どんな感じで、それがママにわかるのかな~・・・ 1
表面上とコアの意識、言葉にするのも何とも難しいですね💦
まず意識が入っていない息子は死んだ魚のような目をして、表情も乏しく、体に力が入っていないからすぐに姿勢を崩してダラ〜っとしています。
学校の課題などモチベーションが上がらないことがあると、とにかく寝っ転がってダラダラ…先延ばし後回しして、これから始めても間に合わないという時間になってようやく少し気持ちは焦るけどやっぱりダラダラ、喋ったり弟にちょっかいかけたり、とにかく進みません。ここで集中してしっかりやるようきつく促すと攻撃性が発動して、理不尽な当たり散らしが弟へ…さらに荒々しいしぐさや言葉の連発で、これが表面的な感情に囚われている状態と言えると思います。
本当の意識が入っている時、締まりのある顔をして表情も豊か、姿勢も安定してクニャクニャせず、プラスのエネルギーで自発的に考えて動いています。
自発的というのが息子の場合、キーワードだと思っています。
ほんの少しでも興味を持てたなら、そこから分析したり他の事象と比較したり深く思慮して関連あることや一見関連無いようなことも関連性を見出して繋げていくことができるからです。
ハマればこだわりの強さからのめり込みやすいので何か習得するまで知らないことがないくらい徹底的に調べ尽くす、やり込むとなるのです。そしてそれはブームが去って行動が落ち着いたとしても、ずっと残っていて関連する事柄があればすぐに引っ掛かるし、引き出しとして自由に引っ張り出せる状態まで持ってこれます。 1
興味の入り口はげんちゃんのギラギラが弾きたいと言ったようなことでOKで、最初は何となくかっこいいからと形から入ったものでも、自分でこのコアな意識のある場所へと持っていけたり、自力では流れそうという時には私が橋渡しをする役目をして次の段階へ進めていくようなことをしています。
そのため自発的に能動的に動くものとの出会いを仕掛けていっています。
去年は雰囲気に流されてうっかりやることに決まった生徒会の応援演説でしたが、今年は自らやろうと決めて立候補し再び応援演説をさせていただくことに決まったようです。偶然性の強い出来事もしっかり心で捉え、次へ繋がっていたりします。捉えるために流さないために周りは落とし込める関わりもしますが。
そんな様子ですので息子の場合、意識が出やすい、入りやすい、もともと持っているのかなと思いました。
ただ、流すもの、捨てるものとの落差はすごいですよ💦
息子の場合、生活する、暮らすことはまるで興味がないので基本的生活習慣の身につかなさは天下一品だと思っています。
げんちゃんの朝食のようなルーティンにすら入り込めないから困ることも多いです。
夏みかんさん
なるほど=。息子さんは、げんちゃんとは全く違うタイプみたいですね。自分からやろう、としたことをげんちゃんより、ずっと突き詰められるんだと思います。
げんちゃんは、どれもたいしてものにならないタイプ。そのかわり、言われたら、なんとなくぼんやり、いやいやながらでも、やればいいのかな~みたいなのりでやっている。
S先生のまわりには、発達の大人の方も指導対象でいらして、とにかく、げんちゃんとは指導法が真逆だったりします。
げんちゃんは、とにかくすごい圧で、押さえつけてちょうどいい感じですが、それはあまりしない人もいます。しかし、表面上してないようで、ソフトに見えるようにしながら強い圧をかけ、誘導し、切ってしまうべきとこは、きっぱり遮断。
真似はできません。
けっこう自分からやる力のある子には、のぼせさせない、と言うことも大事なようです。自分からやりはじめて、それが良い結果になって、ちょっと有頂天になるようなことがあれば、あまりほめずに、矛先をかえる。
それはたいしたことではない。そんなことできる人はどこでもいるよ。そういうことを生かすには、きみはここができていないから、そこを伸ばさないと、意味がないね~。
などと、成功した時にあえて言ったりするらしいです。
でないと、自分の好き勝手な矛先でとったゴールで間違いない、そこができてるんだから、俺は上だ~なんて、思っちゃうらしいです。
このアドバイスは、お子さんに合うのかわかりません。
げんちゃんも、たいして成果を出さない子ですが、できたと満足すると、高慢がすぐに頭をもたげるので、似たような指導をされています。
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夏みかんさん
いつも寝ている、というのは気になりますね。げんちゃんは、体力があるのか、昼寝さえめったにしない子だったので、あまりわかりませんが、体幹がなく、ふら~っとしていたのは同じです。
何をさせるにも、根底に甘えがあるので、ある時期になったら、家での限界があります。頭ごなしでもだめ、だからといって、トップダウン的にやらせないといけないことも増える。
なかなか知恵がいりますね~。
音楽ですが、げんちゃんギラギラをひくために、楽譜の本を取り寄せたら、最近の流行りが20曲くらい入っていました。S先生が見たら、すべてだめ、まあ、しいてと言えば、ポケモンの挿入歌くらいがぎりぎり。なんて言われました。
全部感情・・・感情だけの曲は、気持ち悪くて聞けないよ。なんて・・・
実は、ベートーベンもダメだしされていました。彼の感性だと、貴族の女性をひっかけようとするトゲ、有名になって出世したい、というトゲ、そういうのが気持ち悪くて聞きたくない・・・なんて言ってました。
私にはよくわかりません。
芸術って、本意識から出たものと、表面意識の感情で作ったものに分けられるらしいです。
Adoのうっせいわ、とか、かなり流行ったバッドガイなどは、かけた瞬間に、止めてください。幽霊集まってくるよ~。なんて言う。
不思議な方です。
まあ、とにかく、与えるものは細心の注意を払うってことでしょうかね~。自分の感性も磨かないといけませんね。そうなると。
発達育児は、ほんと自分教育なんだな、なんてこと考えながら聞いたエピソードです。おもしろかったので書いてみました。そういう世界もあるんでしょうかね~
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S先生の手腕はすごいですね。
頭の中を覗いてみたいです!ベートーヴェンはダメだと、モーツァルトはいいのかなー?けっこう頭の中がピンクな人物ですけど笑 気になる笑
自己肯定感が低くて自信がないので過小評価になりやすく基本的には認める対応が多いですが、仰るように急に傲慢さが見られることがあって、その時はやはり落とさないといけません。
のぼせさせないというのは肝に銘じて常に気にしておく必要がありますね。ありがとうございます。
たしかに音楽も絵画も妙に感情を揺さぶられるものってあるかもしれませんね。そういうものに触れ続けると感情的に動きやすくなるのかもしれません。
息子はそのへんわりと冷静に客観的に捉えられるのかもしれないです。自分のこだわりや特性と自発的な活動と現実世界へ繋がることの中間に位置して橋渡しの役目をしてくれるのが音楽、映画、漫画、ゲームですから。
ボカロ曲が親子で好きなので(笑)S先生に怒られちゃうな。
あえて毒のあるものを求めて鬱憤を晴らすことで、攻撃性の解消をしているみたいですよ。
息子はうっせいわも歌詞やメロディの変化に伴って歌い方に変化があって面白い、この歌詞だからこんな歌い方で表現してるのかなと話します。そこで私はチェッカーズや尾崎豊などに広げていき(似てる部分があるので)、そこからその時代の音楽や時代背景について話します。昔の話を聞いたらまた今の時代に戻って息子自身が今の時代背景と歌を照らし合わせたり自然と多方面から考察します。こんな関わりの繰り返しが言葉や興味の範囲を広げ、能動的に考える力がついていくと感じてますが、これは息子のためのオリジナルの方法だと思います。
親も教養がないと広げていけないのでおかげで色々な知識が身についてきますね。たしかにこちらが成長させられていますね。 1
夏みかんさん
曲の評論を親子でできるなんて、ほんとうらやましいです。
ボーカロイド・・・昭和世代の私はなかなか無理ですが、娘もはまったりしてますから、今どきなんですよね。
しかし、最近娘は、昭和の歌ばかり聞いたりしてます。かしこい子は、良いもの悪いもの、流行りの物、昔のもの、なんでも受け入れて、それを消化して、最後に本質的なものをしっかり身にしていきますが、げんちゃんたちは、ほんとに危なっかしい。
お子さんは、そういうところは、ちゃんと吟味する能力がありそうですごいな~。
私たちも、若いころ、刹那的なものに憧れたり、ワルが素敵だったり、色んなステージを潜り抜けているはず。悪いものがあるので、よりいいものがわかる、と言う面もある。
その取捨選択能力が、最終的にしっかりついていけば素敵なんですが・・・げんちゃんは、やはり、相当気を付けないとやばいです。
尾崎豊・・すごかったですよね~。メロディーと詩。私の時代だと、浜田省吾かな~。年がばれる・・・笑
げんちゃんは、ピアノコンサートのあと、ギラギラのことはすっかり忘れてしまったかのようです。
なんか、圧倒されたみたいです。
でも、前回のように感情的ではなくて、そこは成長したのか、単に興味を失ったのか・・・・
どちらにしても、進んでいってるんですね。 1
夏みかんさん
あ、そうだ、モーッツアルト、バッハは絶賛してました。上からのものだ、みたいなことを言っていました。
いわゆるお行儀のよいものがいいのか、と思うとそうとも限らず、いろいろ。でも、ずっと聞いていると、なんとなく、そういうことなのかな~なんて感じはします。
尾崎豊、いいですね。曲と詩、声・・・私の時代だと、浜田省吾かな~。あの頃は、ヒットする人のほとんどが、三拍子そろってましたよ~。
げんちゃんは、先日までは中島みゆきでした~。
ギラギラのことは、不思議と、ピアノコンサート後は言わなくなりました。結局、ほんとに弾きたい、と言う思いより、かっこいい、という感じだったのでしょうね。今風のもので、友達も作れるみたいな感覚がメインだったのかもしれません。
そういうの、すぐに見抜けるS先生はすごいな~と思いました。でもそういう見栄や好奇心も、成長ですよね。
昔は、アナログですべてを作っていたのですから、今と全然違うのはあたりまえですね。今は、曲によっては、デジタル技術をひけらかすだけの曲もある気がします。三次元世界の、今まで拾えなかったものを拾ってきただけ、というものは、人の心を癒しません。
と、先生が言ったので、うまいこと言うな~と思いました。
まあ、なんでも時代のフィルターにかけられ研がれていくのでしょうかね。
音楽談義、美術談義、先生の話はおもしろいです。私だけ聞くのがもったいない・・・笑 1
げんちゃんママさんの表面ではなく、げんちゃんの本質を見る力、尊敬します。
私なんて、表面にでてくる息子の態度や言動にオロオロし、一喜一憂してしまいます。
朝食作りやバイトもすごいなーと思うし、私だったら、褒めまくってしまうと思います。
そもそもやれないと思うし、やらせないと思ってしまいます。
どうやったらげんちゃんママさんのように冷静に分析し、能力を上げるようなアプローチができるようになるのでしょうか?
ちなみに息子もボーカロイド大好きです。
私もよさはわかりませんが、しょっちゅう聞かされるうち、少しは好きになってきました。
みかんママさん
私も一喜一憂してますから、ぜんぜんほめられたものではありません。
げんちゃん教育していく中で少しずつ何が大切なのか、焦点を合わせることを強いられています。
結局、頭も悪い、性格もまともにならない。依存心の塊。・・・そういうガキを育てていると、なんもかんもまともにすることを考えていると遠回りになるので、根源のところをしっかりしていくことが一番早道かもな~と思います。
人生に対して真摯に向き合う。与えられた命を磨いて、前向きに生きる。人に感謝する。努力する。もちろん、そもそもできない子もいるのかもしれません。でも、げんちゃんは、やろうと思えばできてくる兆しを見ています。
そこだけしっかりできれば、勉強だって伸びていくし、ソーシャルだってましになる。
そういうところをごまかして、表面だけつくろい、なめたことをしてくるので、そこは毅然と、こっちは不動でないといけないと思っています。
ずるさを引きづり、人がかけたエネルギーをすべて捨てて、感謝もせず、表面作るずるさだけ磨いていくなら、げんちゃんは、神様に罰せられて、今までの恵みを取り上げられてもしかたない
、とさえ思います。
私や他人をごまかしても、自分をごまかして生きるのはだめです。自分から逃げて、それを人にかたがわりさせようとしているげんちゃんですから。神様は、どこまでも愛をかけてくれますが、厳しさもあるのです。
神様の愛に甘えすぎて、どこまでも好き勝手するなら、神のきびしさがやってきます。そうなれば、たとえ親でも助けられません。そういう意味では、げんちゃんと私は、おんぶしている関係ではなく、対等に、神の前に一人立つ存在です。
そういう死生観があります。それは、子供や夫に対しても同じ。自分も、そういう気持ちで、生きていると思います。 1
みかんママさん
色々な意味で、自分がさいげんなく、どこまでも子供をおんぶして、人生を歩いてあげないといけない、と思っている障害児の親もいます。私は、そのような考えはもちません。私が子供に対してしないといけない部分と、げんちゃんがやらねばならない部分は、決して交わりません。なぜなら、げんちゃんの魂はげんちゃんのものだからです。
げんちゃんは、今、自分でやらないといけないところを克服しないと、ある一線をこえません。もうほとんど私のやる部分はやりつくした感があります。
だから、とても腹だたしくげんちゃんを見ています。げんちゃんがどの選択をこれからしていくのか、きっかけをつくってやることしかできません。 S先生とて同じでしょう。
げんちゃんが、自分で気づいて、自分の魂に向き合ってくれるように、ただただ祈るような気持ちです。
その線引き、大事な部分なんじゃないか、と思っています。もし、私が冷静に分析しているとしたら、その線引きが、かなりはっきりしているからなのかもしれない、と、思いました。
しかし、自分では、分析できていないことも多く、S先生にヘルプコールしております・・・ほんと試行錯誤なんですよ~。 1
私もげんちゃんなら、人生に真摯に向き合い、与えられた命を磨き、前向きな気持ちで感謝して努力するということが出来ると思います。そういう部分が出現する機会があるからです。しかし、おっしゃる通り、それが常時ではなく、まだ断片的ではあると思います。意識レベルが急降下してしまうことがありますし、まだ周囲の人が引き上げ続ける努力をしなければ、上がる瞬間さえ失ってしまう危うさがあるということが良くわかります。だから、げんちゃんママさんは苦労されているのだと思います。
ただし、発達育児において、ある程度の効果を上げようと思ったら、この努力を続けるより、他にはあまり道がないように私は感じています。ですから、そこにターゲットをしぼってらっしゃるからには、変化も期待できるのではないかと思います。
ある程度のところまで来たら、手を離して要所要所の介入ですむようになりますが、今はそれが遠い道のりのように感じてしまいますよね。
とにかくプラスのエネルギーを取り込み、プラスのエネルギーを出して行けるようにするしかないと思っています。
以前もお伝えしました通り、私もバッハとモーツァルトが結局一番好きなのですが、それには理由があったと知り、勉強になりました。私は根拠もなく、ただ感覚的に綺麗な光エネルギーを感じていました。ベートーベンなどは確かに濁った感じがして気分も悪くなります。
ちなみに、げんちゃんママさんから受けるエネルギーも美しくプラスです。心が真っ直ぐで綺麗なのではないかと思っています。 2
ロボママさん
ロボ君は、ある程度のレベルをクリアして、プラスエネルギーで、安定して歩んでいくようになってますね。
それまでは、落ちそうになると引き上げ、また気を抜かず導くような状態があったんですよね~。
確かにおっしゃるように、げんちゃんは、そのステージにはまだまだ遠いです。
油断すればすぐにくらい穴に潜り込もうとします。
たまに、浮上して、それが続くときは、嵐が終わって晴天が続くような感じです。しかしまた、嵐。
もう、こいつはどうしたものかな~と思います。
自分の心の底から、S先生は本意識とか言ってますが・・・向上したい、という思いが出てこないと、今の分岐点は乗り切れません。
それなのに、小手先でやろうとします。いや、やったような気になりたいだけでしょうね。結局は、こちらのエネルギーをあてにし、こっちが頑張っているのを見ると、あ、自分はこれで落ちはしないかな・・・と思うようです。(自覚していないかもしれませんが。)
だから、そろそろ、無視したり、手を放して放り投げてやるようなとこが必要なんだろうと思います。無視して、自己責任でしょ、的なことを演出すると、焦って、懇願してきたりします。
それを見ると、なるほど、こいつは確信犯だな、と思います。
げんちゃんに対して、普通にしてもらいたい、とか、学校のカリキュラムをなんとかこなしてほしい、とかいうスケベ心があると、げんちゃんに見透かされますから、そういう外側のことはどうでもいい、という徹底的な一本通ったところを見せる必要があります。
まあ、おかげで、日曜日1日かけて、七田の算数(4年生)2枚とか・・・びっくりします。でも、そこでまた、手をさしのべて、一から教えるようなことをすると、3歳児げんちゃんから卒業できません。
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