年末お掃除にあけくれたり、親戚に会ったりしていましたが、今日は、しっかりお勉強の時間が取れそう。
と思って、げんちゃんに英語のドリルをさせたら、
I give she a letter.
のようなことを平気でやりまくって、ちゃんと勉強した気になっていたので、激怒しました。she か her か、ただ選ぶだけですよ~。
うわっ! また抜いてやがる!(もう類似の文や問題に、100回は触れていることでしょう。)
そうなると、私は、げんちゃんをけちょんけちょんに指導します。まるで、げんちゃんについているお化けを、私が出す、すごいエネルギーで蹴散らすような感じかもしれません。
私はへとへとになりますが、蹴散らすと、そのあとは、げんちゃん、代名詞の活用形の表とか見始めて、ちゃんとやり直してこれました。
最初からやれよ・・・ってことなのですが、勉強となると、すぐにお化けと仲良くしてしまうげんちゃんですよね。たとえでそう書いたけど、案外、あのおそろしく表面だけのげんちゃんって、お化けに憑依でもされているのかもしれません。ほんと、やっかいきわまりない!!
でも、外からげんちゃんの行動だけ見たら、いやがらず、きちんと机に座り、なんかやってるそぶりを続けますから、昨日今日彼を教え始めた先生なら、
「あら、わからないの?これは違うでしょう・・・」
なんて、優しく教え始めることでしょう。そうすると、げんちゃんは、してやったりとなり、抜いたまま、どかっと先生にしなだれかかる勉強法を展開してきます。
でもそうはさせません。そういう時は、いちいちげんちゃんの心が動くために、一度ぼろくそに言わないといけません。ほんとに疲れまくります。
ま、これは、げんちゃんに対するやり方で、そこまでけ落とさなくても、ちゃんと軌道修正する子がほとんどかもしれません。げんちゃんと言う子は、タフな魂をもっている反面、ほんとにエネルギーが大量にいる!
しかし最近は、表面的にでも涙が出てくるげんちゃんです。泣くことさえできない鉄面皮だったげんちゃんの意識は、多少は厚い殻が溶けてきて、こちらの言うことが届きやすくなっています。
私の強い指導に、やっとじわっと涙が出てきて、しばらくいすわるように、反抗を続けたあと、やっと気持ちを入れてやり始めます。そうなったら、初めて、まともな勉強が始まります。
私は、最近、げんちゃんの表面だけつくろう、おぞましい表面勉強をことごとくつっぱねています。
そんなことしてたって、時間の無駄です。 でも、表面勉強を拭い去るのに、膨大な時間を要しますけどね~。
ほんとに、いちいちこういう儀式なしに、最初から気持ち入れてやれよ! って感じ。ほんとに疲れます。
げんちゃんの、意識が入っているか、表面だけつくろっているか、というのは、顔を見たらよくわかります。だめな時は目が死んでいます。ぼわ~っとしています。
Sさんは、手鏡を見せなさい、と言います。げんちゃんは、意識のオンとオフの状態を、それなりに自分で感じ取れるようになっているようです。
だから、鏡を見せて、自覚させることができるそうです。
確かに、今日も、状況がよくなった後、検証をさせてみたら、
「意識入ってないのわかってた。やりたくないから適当にやろうと思った。」
みたいなことを言ってました。(こんなにすらすらは言えません)
「ずるいよね~。私はあんたのそういうずるいとこ大嫌いだから。やるんなら気持ち入れてやった方が、力がつくでしょ。人だまして、適当にごまかすなら、あなたに誰も教えないから。見捨てるからね。」
冷たく言い放つと、うん・・・と素直にうなづいています。
まあ、一気にはいかないんでしょうね。合宿の疲れもじわじわと出るらしいし・・・・
儀式なく、しっかり最初から入魂するげんちゃんが、早く見たいものです。
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前回の記事へのコメントに対する返信の内容についてなんですが、発達障害への偏見といえば、一般的には「発達障害は良くないものだ。」という考え方のことを指しているように思います。
ちなみに「発達障害は治らない」というのは偏見というよりは、認識のように思います。つまり、現在の発達障害の研究においては、発達障害の脳の状態を全く健常者と同じようにすることが出来るという報告がありませんので、治すことは今の段階では難しいという認識が人々の中にあるということです。
治すことが出来るということは、確かにあるかもしれませんが、今のところ、それは科学的には証明されていませんし、あったとしても事例的に少ないのか、世の中にほとんど知れ渡っていないと思います。
つまり、「発達障害が治らない」という偏見があるというよりは、治るという科学的根拠や治ったという事例がほとんどないので、「今のところ治ることは難しい」という認識があるだけのように思います。
もし、「治る」という科学的根拠や「治った」という事例が多く出てくれば、これは割りと簡単に覆せる認識だと思います。事実に基づいて判断すればいいだけのことだからです。科学的根拠がなくたって、治っている人がたくさん出て来れば、それだけでも、あっという間に覆せる認識だと思います。
しかし、今のところは、問題なく暮らせるようになった人は、うまく障害を隠せるようになったということが証明されるに留まっていますので、辛さや苦しみは変わらないことも多いのかもしれません。そう考えると親としては治ってほしいと思うのも当然だとは思います。
ちなみに、発達障害者は私達とは違う枠組みというのは、一般的にも偏見だと考えられていることだと思います。これは特に日本に強い考え方で諸外国では、かなり事情が違いますよね。
それぞれに違いや特性があるのですから、それを尊重して生きて行ける社会にしていくことが必要なのですが、発達障害の人は違う枠組みだから、その特性は良くないことだと親自体が感じてしまっていたら、それも偏見だと思います。
そして、今日の記事の内容についてですが、全くroboも同じです。
ドリルをやっていて連続的に間違うので、激怒すると、軒並み正解し始めるのです。
最近、roboはずいぶん意識の操作能力がついて来て、さまざまな場面で本来の力を発揮出来るようになって来ています。しかし、こと勉強に関しては、改善が遅れています。
おっしゃる通り、ここは時間がかかりそうですし、進んでも少しずつ少しずつのように思います。常に横にはりついて激怒しているわけにも行きませんから、本人の意思が宿るように促し続けるしかありませんね。
ロボママさん
ありがとうございます。偏見とかいうとこは、あまり考えなしで書いておりましたので、ピント外れかもしれません。
私自身、げんちゃん育児をするまでは、知らないことによる偏見がありました。
つまり、大変そう・・・避けて通りたい的な関心のなさかな~。友達のお子さんが発達障害ともし聞いたなら~。なんかよくわからないけど、普通じゃないんだ・・・一生福祉の世界に生きていくのかしら?
くらいの感覚です。まあ、やっぱり、別枠的な感覚だったように思います。
ま、ここまでやっかいとは思ってなかったけどね。笑
たまに、外部の偏見的な発言を聞くと、(本文中の親類の言葉も、ある意味、障害児はこうだ、という決めつけ感むんむんです。笑)あ、そうだよね。普通は、そう思うよね~、と我にかえるようなところがあります。
それほど、げんちゃんに対して、一人の人間として、枠をはめてない自分に気づきます。
神様はどんな人にもチャンスを与え、奇跡をおこす平等性を持っています。その信頼の上に、自分は育児をしているんだと気づきます。
ま、現実は、ほ~んと大変で一歩ずつにすぎませんね~。お~い神様~。どうなってんの~?ちょっとやばすぎ~・・・
などと叫んでおりますが・・・私のぐちぐちもけっこう聞かれておられるでしょう。神は
でも、あの、意識覚醒までのエネルギーってなんなんでしょうね。とにかく、自分の好きなことだけしかやらない、というわがままさも、どうしたものでしょう。
精神疾患と思えばそれまでですが、ほんとひどすぎます。笑