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げんちゃんのたどった様子を見ていて、私は、昔から疑問に思っていたことに、私なりのちょっとした回答を得ました。
それは、げんちゃんが、発達障害とわかった時、まわりからもよく言われたことです。
「へ~・・・でも、そういう子は、何かしら天才的な物を持っていて、何か一つのことに秀でていたりするんだよね。」
たぶん、発達ママたちは、一度くらいはそう言われたことがあるのではないでしょうか。
私は、まわりからの慰めとも思われるそういう言葉かけにちょっと戸惑いました。
だって、げんちゃんには、何一つ特徴的なすぐれた兆候は、なかったからです。
「絵が上手だったりするんでしょ。」
と言われたこともありましたが、残念ながら、げんちゃんは三角さえ描けませんでした。絵が下手なのではなく、描けないのです。もちろん、リズムも、音もとれませんから、手拍子さえできません。
音楽の才どころか、正常な聴覚さえあるのか疑わしいようなありさまでした。良いところといえば、おとなしく、にこにこしていたことでしょうか。それも、今となっては異常の現れだったようですが。おばあちゃんによると、絵本の読み聞かせも興味を示さなかったらしいですし。
さかな君が発達障害かどうかは知りませんが、彼は、小さなころから、際立って、他の子とは偏った興味を示し、お母さんは、それを、良しとして、どんどん応援して、すぐれた魚研究者になりました。ほかにも、そういう例はたくさんあって、溝を持ち上げるより、峰を伸ばすんだ、ということが示唆されていました。
しかし、わが子を見ると、峰さえよくわからないし、たとえ低い峰があったとしても、それだけやらせていたら、何かとんでもないことになりそうな恐ろしさを感じました。
結局私は、ひたすら、溝になっている能力を上げ、峰とはいえ低い能力も、おこたらず伸ばす。・・・・伸ばそうにも、つかめもしない項目も数限りなかったので、とりあえず、なんとかつまめるところを、必死でつまみあげてきた。その繰り返しを、毎日毎日あきもせず、あきらめもせず、積み重ねてきただけの育児でした。
げんちゃんと、さかな君のような、それだけをさせてあげても、なんとかなる、という、尖った峰をもつお子さんと、どこが違うのかな、と、ずっと思っていました。峰ばかりどんどんやらせていくことで、大きなアドバンテージが生まれる子と、わが子のように、それだけやらせていたら、恐ろしいことになりそうな子の違い。
げんちゃんも、ある時期から、たとえば、電車に興味を持ったり、工作で、箱の一部を少し切っただけの同じデザインの、単純な駐車場とやらを、ずっと作り続けていた時期がありました。それなりに、彼の興味の偏りに従って、そればかり熱中するものがありました。しかし、そういう現象が出現しても、これだけやらせていてはだめ・・・と、私は直感的に感じていました。
さかな君のようなはまり方とげんちゃんの違いはどこなのか。私は、かつて、ずっと疑問に思っていたのです。
げんちゃんが、何かにはまっているとき、それは、意識が抜けた自分の世界観に浸っていたのです。くるくるとらせんを書いて、らせん階段を上っていくのではなく、同じところをくるくる堂々巡りしているのです。彼が駐車場作りにはまっているときは、ひたすら、箱の同じ場所を数カ所カットして、線を同じ場所に引いて終わりです。どんなに誘導しても、それしかしません。同じループから出ることはないのです。
しかし、さかな君たちに代表される行動はというと、最初は、タコにはじまりましたが、それを極めると、今度は、ほかの魚、やがて、現物を見てみたい、という興味にうつって、それはもう、次から次にらせん階段を上るように、進化していきました。彼の中には、明確な興味のターゲットがあり、行動も、そのターゲットに向けて、しっかりとした根拠があります。
そう、げんちゃんと彼の違い。
さかな君のような興味行動は、成長していって、より高いところ、または、広がったところにつながっていっていますが、げんちゃんの興味の先は、一点にとどまっていて、彼をある意味、安定した空虚な世界に閉じ込めているものだったのです。
私は、そのころ言葉では説明できませんでしたが、さかな君のママのようなことを、この子にしていたら、きっと恐ろしいことになる、と直感していたので、いつも、その世界から、引っ張り出して、他の物を見せようと躍起になりました。
でも、それは正しかったのです。その時彼は、自分の世界観の中にだけ存在していて、つながりを何にも持っていなかったのですから。そこで、とどまらせれば、彼の意識は、封じ込められていたでしょう。
今回、げんちゃんはクラッシックに興味を示しました。でも、今回は少し違った。前々回のブログにしたためたように、彼のクラッシックへの働きかけは、風変わりだったけれど、それなりにパターンを変えてきました。目的意識が時々的外れになってしまったけれど、少し修正してやると、また、次の広がりにつながっていく感がありました。今でも、ほっとくと、同じループに陥りそうになりますが、言葉かけや、こちらの操作で、なんとか、らせんを上りそうな気配を感じます。
さかな君ほどのパンチはないものの、まあぼんやりと、多少は、自分の興味を自分で追及し、広げて高めていく、芽のようなものがかすかに見えた。
つまり、げんちゃんには、まったく峰がなかったわけではなく、その峰が出てくるまで、基本的な能力が、あまりにどれもこれも低かった、ということなのではないか、と思いました。もちろんIQだって、最初は、とても低かったし、聞く、見る、感じる、・・・人間の基本的な要素が、すべて胎児のように未熟だった。彼には、正しい入力も不可能だったし、ましてや、出力など、遠い夢。
そんな闇の世界では、彼が神様にもらった、宝の箱の場所さえ、あるのかさえもわからないのは当然なんでしょう。
しかし、ある程度、すべての能力が満ちてきて、意識が解放されていくと、闇は照らされ、どの発達障害のお子さんにも与えられている、宝の箱の存在が、少し月明かりに照らされるように見え隠れした。そんな感じなのかもしれません。
さかな君的な子は、ある程度、他の能力も初めからそなわり、一つのことを通して、苦手なことさえ、少しずつ押し上げる力がある。しかし、げんちゃんは、すべての能力が低すぎて、自力では、そういう行動はできなかった。でも、ある程度のとこまで持って行ってやると、さかな君のような、光った部分が開き出す。そういうことなのかもしれません。
げんちゃんに音楽の才能があるとか、そういうことはよくわからないし、世間で通用するような何かがあるのか、それは不明ですが、発達障害だからこその、宝の箱をやはりもっているような気がします。
私とげんちゃんは、そこに向かって旅をしているのかな。もっともっと探し、求め、努力を重ね、神に問い続け、絶対に神の箱を開けてみたいな~、と願います。
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山下清のように、知的障害で神の箱を開けた人もいるので、全ての能力を押し上げなくても、神の箱を明けられる人もいますが、その場合は、要所要所、必要な部分の能力がちゃんと引き上げられていたのでしょうね。
また、おっしゃる通り、発達障害の子ならではの神の箱はきっと存在すると私も思います。
それが、社会で評価されるかどうかは、時代のニーズ、人との出会い、運にもよると思いますが、それぞれ必ず持っていると思います。
その箱を絶対に開けたい!というげんちゃんママさんの気迫が伝わって来ました。
花まる学習会をやめてしまい、どうなることかと心配しましたが、早速、算数(公倍数、公約数)の宿題プリントを見たところ、全く理解できてなく、ほぼ全て間違えていました⤵︎
これはまずいと思って、教えようと思ったのですが、私もわからず、先に1人でユーチューブの動画をみて、画面コピーし、私が紙で教えました。画像自分でみたほうがわかりやすいと思うのですが、画像見るのも嫌がります💧
最初は、私から教わるのにかなり抵抗されましたが、息子が漫画のテレビ見ながらなんとかだましだまし教え、少しずつ興味を持ってくれ、ここ数日、短い時間ずつですが、私と勉強をやれるようになってきました。
約数、倍数も理解はできたと思います。
そして、ここ最近、歴史に興味をもってきました。
坂本龍馬、新撰組、沖田総司、三国志、ジャンヌダルク、卑弥呼などなど。
教えて教えてって言われ、ネットで調べ、伝えたりするのですが、さらにいろいろ質問責めにあい、私、歴史もわからず答えられず…
動画などないかと言われ、坂本龍馬の特集だけ見つかり見せたのですが、他のも見たいとうるさくて。
息子、サスペンスとか、悲しい話しとか見てしまうと、当分の間、怖がってしまうため、できれば、歴史は興味をもってほしくなかった分野です。
息子は、たまにピョコっと出ますが、細く長いもので、太くはなかなかできないんですよね。
にしても、今更私も息子と一緒に勉強することになるなんて思いもしませんでした。
相変わらず理解度は、息子のほうがいいです。
私は何度やっても理解できず(-_-;)
やっぱり、坂本龍馬が怖くて寝れないって言われてしまいました( ; ; )
ぼく、歴史苦手かもって。
怖がりの息子には、歴史は無理そうです。
ロボママさん
確かに山下清は、知的な障害を持っているし、そのあたりを訓練されたわけではないですよね。
私も、そのあたりはとても疑問でした。
S先生がヒントになることを言ってました。
たとえば、さかな君は、やりたい!という思いの強さがそのまま、目的に重なったラッキーな人、だそうです。わかったようなわからないような、という感じなのですが・・・山下清も、そうなんじゃないかな、と思いました。
そう思ってみてみると、げんちゃんのクラッシック熱は、いまいち、やりたい熱がまだまだ弱い感じです。とりつかれたようにやりたい!という思いが、もっともっと出てくるといいな、と思います。
ある程度のレベルまで持っていけたら、今度は、そればからり徹底的にやらせるのがいいんじゃないかな、と思っています。
まだまだ、そのステージはずっと先でしょうね~。
でも、確かに、私は、それを追いかけているんでしょうね。そこまでいけば、もう世間の基準とか、それこそ学歴とか肩書とか、まったく意味のないものになりますよね。だって、この子たちのもらってきたものは、すごいのだろうから・・・笑
おもしろいな、と思います。
みかんママさん
算数の公約数、公倍数・・・比率、通分約分・・・5年から6年にかけての算数は、ほんとに苦しかったです。
今でも、ぜんぜん一人では、あやしいげんちゃんです。
お子さんは、げんちゃんより、ずっと理解力もあるのに、あまり、やりたがらない、というのはもったいないですよね~。
ママが教えるのも大変です。なんせ、どう教えるか、私も大変でした~。
それから、歴史で、怖い、となるのは不思議ですね。ほんとに繊細なんですね。
歴史を学んでいると、残虐な事件とか、いろいろ出てきて、かんがえちゃうときがありますが、そういうことなんですかね。
だったら、すごく繊細なんですね。
やりたい!興味ある! というのも、強さがどれだけか、というのが大事ですね。げんちゃんのクラッシック熱も、さかな君のさかな熱にくらべれば、そもそもが弱いです。そこをつきつめていくエネルギーが大きければ大きいほど、形になっていきます。
せっかく歴史に興味をもってアクセルを踏んでも、ブレーキもふんじゃったのかな、って感じですね。もったいな~い。
お子さんを導くの、なかなか大変ですね~。
今回のこと、書いてくださってありがとうございます。娘も知的障がい(発達遅滞)と分かった時に、義理の両親や私の両親、夫の弟夫婦から『ダンスとか絵とか何か得意なことを伸ばせばいいんじゃないの?』と言われましたが、娘に得意なことなんて何一つありませんでした。そして今もありません(泣)音楽に合わせて踊るのは好きですが、それは自分が好きに動くだけでダンスを習わせても覚えるのに時間はかかるし、みんなと合わせるのも大変だと思います。絵は相変わらずですし。。。娘の良いところは素直さと笑顔と頑張れるところ。でもこれが何に結びつくかは未だに分かりません。これから何か見つかるのでしょうか。。才能でなくても娘にとって好きで何か趣味になったりすることが見つかればいいのですが。ところでげんちゃんのテストの結果は素晴らしいですね。息子の中学の頃の成績一覧に5教科で100〜200点の欄に何人もいましたよ。げんちゃんは試験対策は進研ゼミですか?娘も最近チャレンジや教科書ガイドでテスト前に復習をすれば理科で95点をとってきました。でもこれはテスト問題に限りなく近いことを事前にするから取れているだけで、授業を理解して自分で復習して取れるわけではないので、中学の学習をどうしたものかと考えています。
ここあさん
そうですよね~。やっぱり同じ体験をされてますよね。
テレビとかで、才能のでこぼこが言われて、発達障害も、実はすごいんだ、みたいな情報が独り歩きしているのか、相手が、レスポンスに困っているのか、そういう発言になりますよね。
実際、私も、げんちゃんを育てるまでは、そういう無責任な発言をしたことがあります。
しかし、何もできない、という子も多いですよ。そのまま放置すれば、げんちゃんだって、どこに行くのだろうと恐ろしくなります。
親が死んだら、世話ができなくなって精神科入院、とかいうことだって十分にありえます。
今でさえ、そのリスクはゼロではないです。
だって、発達障害は精神面の障害だと思うし・・・
テスト結果、確かに1学期からすると、どかんと上がった感はあります。ちょっとびっくりしました。でも、お嬢さんのテストと同じで、私たちがお膳立てして、やっとこさ出たことです。まだまだ先が長い。
お嬢さんの95点もやはり進化ですよね。げんちゃんも、昔は、テストを受ける、という前の段階で、そこに意識焦点をあわせることができなかったです。
焦点をあわせたから、とりあえず出力したわけで、やはり、進化してますね。
どこかのポイントで、お嬢さんのもらった宝箱が見えてくるんでしょうね。私たちが、その時点まで、根気が続くか・・・それが問題ですよね~。笑 時々、気力が萎えますもん・・・
いまだに、ほんのささやかなつながりも、見いだせない時が多いので、少しくらい伸びても、なかなか楽観視できてきませんよ。
本質がかわってほしいですよね~。
Sさん
げんちゃんも、まさに、そう言う状態でした。何かに熱中する、といっても、受動的なものも多かったし、熱中して何かをすることはほんとになかったように思います。
しかたがないので、無理矢理、させました。
たとえば、紙を切る、という行為も、熱中してやることはないので、無理矢理させたりするのですが、させようにもできない、ということも多かったです。
それで、無理矢理でも、なんとかできるものをひたすらやらせてみる・・・・その繰り返し。まさに、三角をなんとか引っ張り上げていく、そんな感じですよね。
そうすると、昔ひっかからなかったものが少しひっかかってきて、そっちをやらせてみる。
その繰り返しをひたすらやりました。
そんな中ではまったものは、ゲームでしたが、それはやらせませんでした。やはり、おっしゃるとおり、これは、受動的で、ただ、薬にはまるみたいな怖さがあって、健全なはまりかたではない、と思ったのです。
ですから、4年くらいで、マインクラフトにはまったときは、少しだけさせて、マインクラフトアイテムを使って、工作をさせたり、本を与えたり・・・・しました。
でも、ゲームができるようになったことは成長でした。普通の子のように、スマホとりあげて遊ぶ、なんてことは、幼児のげんちゃんには無理でしたから。
Sさん
そういえば、妖怪ウオッチにはまったこともありましたよね~。その前はトーマス・・・
でも、同じ映像を何度も何度も繰り返し見るだけで、そこから、何かを作りたい、とか、違うジャンルのものにつながっていくことはなかったです。
確かに、つながりをつけるのがにが手なげんちゃんですから、難しいのでしょうね。今でも、クラッシックは、広がって行きにくいですから・・・・
この作曲家は、どういう生き方したのか?他の作品は?
音楽の構成はどうなっているのだろう・・・・そういう感じで、ひろがっていくといいけれど、まだまだ入り口をうろついています。
でも、ゲームを与えない、とがんとしてゆずらなかったのは正解だったと思っています。それにかわる何かを見つける手伝いをしてあげて、なんとかクラッシックにおちついてくれた、そう思っています。
お子さんも、げんちゃんパターンなんですね。大変ですが、一つ一つやるしかないですよね~。苦労わかりますよ~。
そういえば、ゲームをしたい、とか言って、いつも、私からスマホをとりあげようとねらってたげんちゃんでしたが、最近は、まったく忘れたかのごとくです。
たま~に、思い出したようにしたがるので、そういうときはやらせてますが、30分くらいして返して、って言うと、わりとすんなり返してくれます。
現代は、ゲームを与えない、というのは、ほんとに覚悟がいりますからね~・・