描けない所から考えると、描けるようになっているけれど、ここから先は全くない感じです。
絵が描けるということは、発達障害においてとても大切な意味を持っています。
空間認識の異常を映し出すバロメーターにもなっているし、絵を描く行為が、認知の異常を可視化し、改善するツールとしても使えるからです。
発達障害の深刻な問題、「認知の異常」とは、単に情報処理が甘いとか、脳のスペックが低いとか、漠然としたものではありません。
絵を描くためには、見たものをしっかり言語化してとらえることが必要です。そして、それをするためには、しっかり心を使わなければできません。なんとなくそこに○○がある、程度の捉え方では、なかなかアウトプットまで行きつけない。
彼らが絵を描く能力が低いことが多いのは、アウトプットが下手なのではなく、そもそも、インプットの段階で、心を使って、細かく細部をつかむことにつまづいているからなのだと思っています。
絵がまったく描けない、(丸や三角さえ)だったげんちゃんは、すさまじい年月のプロジェクトを積み重ね、ある程度絵が描けてきました。ですから、ここからは、絵を描くという行為を使って、心を動かしていくという訓練を始めました。
デッサン教室に言っていますが、なかなか、それを意識した指導は難しく、最近では、ただ行ってる状態に陥っているようです。破たんしたパース、視点の位置がさっぱりわからない、といった問題点は、一向に治りません。残念ながら、普通の絵の教え方では、それが限界なのだと思います。
認知する気持ちが動いていない絵は、「埋め尽くし」でしかない
デッサン教室で描いているげんちゃんの絵を見ていると、しばしば感じることがあります。
それは、”「描いている」のではなく、「埋めている」「埋め尽くしている」”のではないかということです。
そこにあるのは、「描こう」という意志でもなければ、「伝えよう」「形にしよう」という気持ちでもない。
ただ、紙の上を何かで満たしていくような動きです。
ただ漠然と、完成させることが目的で、その過程には、まったく意識が向いていません。
それゆえに、あるところから、げんちゃんの絵は、まったく上達しなくなっているのです。あるところから、と言うのは、デッサンと言うものに慣れるようになるまでということで、ある意味、デッサンもルーティンに入れ込んだのでしょう。
ただ、描けたと言うだけの絵。
そこに「気づく」ことも、「正す」こともない。
なぜなら、見ていないし、考えてもいないからです。
心が完全にオフになった状態
その傾向は、心がまったく動いていないときに、最悪の状態になります。
「わかろうとする気配」「うまくなろうとする気配」そのものがないのです。
そういうときの彼は、ただその場に“いる”だけ。
人形のようです。意味のある思考や感情から来ている行動ではなく、空っぽの中から出てくる不毛な行動です。
線を引けと言えば、一応は線を引く。
でも、そのすべてに「理由」も「目的」も「理解」もありません。
ただ、存在しているだけ。
ただ、過ごしているだけ。
本当の意味で“生きている”わけではないように見える瞬間。
この状態が続く限り、どれだけ指導しても、げんちゃんの認知は育ちませんし、絵も上達はしないと思います。
いや、それは、書写やそろばんでも同じことです。
S先生と始めた言葉と絵の学び
しかたなく、S先生は新しい指導を始めました。
今、げんちゃんは、「言葉から絵を描かせる」「絵を見せて説明させる」そんなトレーニングをぼちぼちやっています。
心をす動かす訓練としての「絵」
訓練をしていても、やる気や心のスイッチが入っていなければ、訓練は暗礁に乗り上げます。私たちも、げんちゃんの恐ろしくマイナスのエネルギーに振り回され、ぼろぼろになります。
ボロボロになりながらも、S先生は、まるで盲目の人に、物の形や位置を説明するように、一つ一つ丁寧に言語化して、げんちゃんの目と頭を導きます。
指導は厳しいですが、彼が言葉を駆使する様子は、びっくりするくらい親切で丁寧です。
「手前にあるものは、奥のものより大きく見えるよね」
「この影は、どこから光が当たってる?わかる?」
「線を引くとき、どこを見てる?その線、何を表してる?」
「角度は直角より小さくなるの?そこは?」
先生の声掛けは、細かすぎるくらい細かい。
そして、もう“できるはずなのに、心のスイッチを入れない”と見抜いた時には、先生は、それを見抜いて、厳しい言葉を浴びせかけます。
本人の中にある“感じない習慣”を破ろうとしないげんちゃんに、忍耐強い指導が続きます。
描く力は、心と認知をつなぐ入り口
絵は、ただの表現ではありません。心が動いて、インプットが正確にされるか、それを消化してアウトプットにつなげていけるか、それらを問う鏡です。
そして、そこに向き合うことで初めて、本当に“理解している”とは何かが見えてきます。
「ざっくり描けるようになった」ことは、げんちゃんにとっては、実はゴールではなくスタート地点。
“描こうとする意志”を持ち、そこに“心を使う”という行動が加わって、初めて認知の成長が始まるのです。
まさにその扉を開く作業なのです。その一連の正常な流れを、絵を描くことを通して自覚させていければうれしいのです・・・
まあしかし、相手がげんちゃんなんで、ま、期待せずにこつこつやるだけですね。
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