> 期末テストが終わって、ほっとしていると、もう12月の声が聞こえます。
げんちゃんのテストは、数学と国語を支援のテストにかえましたが、数学はあいかわらず20点台でした。げんちゃんは、小学校低学年の七田の問題でも、すらすらというわけにはいかないので、当然かもです。
でも、逃げてる気持ちをなくせば、もう20点くらいアップできるんじゃないかな、と、K先生も私も思っています。
国語は60点台。量も内容も、げんちゃん向け。
でも、びっくりしたのは、けっこう説明してやっていたのに、”支援クラスのテストに変えた”、という意味を、げんちゃんはほとんど把握していなかったことです。
そもそも、げんちゃんにとって、テストというのは、まだまだ、普通の子ほど、特別視するものではないのかもしれません。なんとなく、スケジュールがやってきてこなした~、その程度の気持ちの入れ方なのでしょう。
さて、12月になったら、ピアノの発表会があります。1年はゆうにかけてきて、なんとか弾けるようになった、モーッツアルトの「トルコ行進曲」を披露します。とりあえず、弾ける、というレベルになっています。練習してる動画を応援してくれている知り合い何人かに送ったら、すごく感動されてしまいました。
そうですよね~。幼稚園で始めて、低学年の時でさえ、ピアノの前でまともに練習できたのは、10分程度だったように思います。先生には、リトミックのようなことでつないでもらっていましたっけ。
しばらくして、ピアノの先生から、
「ママ、今日は、なんと10分以上、ピアノ弾けました~。」
なんて、報告を受けていました。
その練習だって、私のエネルギーを最大限に消耗させ、スパルタ式に、無理やり、20分やらせるのが限度・・・・しかも、だらだらと、1時間座らせているうちの20分・・・・そんな感じでした。
わ~。思い出すだに、痛い!
でも、6年生のいつだったか音楽にはまって、なんか、自分で練習するようになって、この曲を弾きたいと選んで、こつこつ先生と弾けるとこまできました。私もなんか、ちょっとほこらしい・・
発表会前になったので、久々に、私がついて練習させてみました。
すると、私のほこらしい気持ちも一変しました~。あれ、こりゃげんちゃんやばいぞ!
好きだという、げんちゃんのピアノさえ、勉強と同じです。ただ弾いているだけ・・・・ゲッ!
自分のミスも把握しようとしないし、どうこの曲を味付けしようとか、そういう心の思いというのが、ぜんぜん響いてきません。1年間少しずつやってきたから、音符だけおっかけて弾くだけ。
S先生が、
「げんちゃんやばいよ。ここで止まるよ。外側だけ上手にポーズをつけて、なんとかでっちあげる。それを自分ができるようになったと思いこむ。中身はぜんぜん変わっていない。
もともと何にも感じにくく、心を動かさないのはぜんぜんかわらず、外側だけ、作ってきている。かなりやばい!・・・」
最近口を開けば、S先生が言うのですが、その意味がなんかわかります。
まるで、人形みたい・・・
「げんちゃん、そこ間違っているよ。ピアノの音聞いて!」
「えー? 間違ってないよ。先生これでいいって言ったもん。」
うわ、これだよ。上手に言えないけれど、げんちゃんは、あいかわらず、捉えようとしない。感じようとしない。でも、表面的なことだけなぞって、なんとなく、外側をでっちあげる。発表会の前になっても・・・
(試験前のげんちゃんと同じ意識パターンだよ!)
ピアノにさえ、それが出るんだね~・・・・うわ~、弾けるようになった~なんて、感慨にふけってる場合じゃないのかも・・・
精神疾患は治らず、それを補うように、本質のないマニュアルだけで動く人!
もっとげんちゃんの本質的なものをかえていかなくては・・・・
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とってもとっても共感する記事です。全くroboと同じです。
そもそもroboもテストの意味が分かっていないというか、自分が試されていて、それで自分の評価や将来がある程度決まって来るということが、真の意味で府に落ちていないと思います。
私達は、点数などで人の全てが決まるわけではないことを知っているけれど、人の中身などは見えないのですから、どうしても点数や結果というようなもので、頑張りや能力が判断されてしまうという現実があるわけですが、その辺りは全くピンと来ていません。
ですから、一般の子がするような、「とりあえずテストを受ける時は一生懸命やる!」ということは出来ず、気分によって一生懸命やってみたり、手を抜いてみたりしていて、しかも、一生懸命テストに向かう方が稀なくらいなんです。
最近、私はそのことを改めて実感し、これじゃあ、いくら勉強したって理解力があったって本番で力を出す気が本人にないんだから意味ないじゃん!と思っているところです。
つまり、これは勉強だけのことではなくて、将来仕事をする上でも、ここぞという時に期待される力を発揮することが出来ない、ということにつながるのだと考えています。どうでもいい不必要な時だけ無駄に力を発揮していても意味がないどころか、「この人、やれば出来るのに、手を抜いてる!サボりだ!」と思われる場合が多いと思います。
ですから、ここのところの改善が進まなければ、roboは一般社会でやっていくのは厳しいなぁと思っています。
でも、変わるか変わらないかは、もう本人次第なので、成り行きに任せるしかないと思っています。
もちろん、繰り返し上記のようなことを言って聞かせて変化を促すつもりで、精一杯のことはするつもりですが。
とにかく、一般の人なら勉強では、あえて手を抜きまくっても仕事など、ここではマズイぞという場面では柔軟に気持ちを切り変えてバッチリ対応したりしますので、一般の人が勉強やテストを頑張らないというのとは意味が違うと私は考えています。
その場で強く求められていることに気づいて、そこに充分対応していけるかという問題だと思っています。今のところ、roboは不充分です。平均点以上取れているとか、そういう問題ではなく、態度・姿勢をどこまで、その時の状況に合わせて寄せていくことが出来るかの問題だと思っています。
ロボママさん
発達障害とは、意識の障害ですねー。ほんとに。
ロボ君は、モラルや情緒がかなりできているように感じるので、げんちゃんからすると、はるか上にいると思っているのですが、それでも、表面だけとらえたり、大事なところをスルーしたり、げんちゃんと共通するところがあるのでしょうね。
この部分は、障害のコアなところで、ほんとに厄介ですねー。
ぼーっと抜いてる状態を放置し続けると、廃人か狂人かっていうようになると思います。げんちゃんは、今までは、外側すら作れなかったので、抜いて漂っている時も多かったのですが、いまは外側だけ作ります。このような発達の子は多いのではないでしょうか。
げんちゃんは、やっと、外を少し作ろうとしますが、真に気持ちを入れて、目的をとらえたり、正しい意識の用いかたをすれば、すべて、無理なくよい方向に行くのに、やろうとしません。困ってしまいます。
ほんとにほんとに厄介。ここでとまって行ってしまう子は、けっこう多いように感じます
返信をありがとうございます。
確かに外側を取り繕うことは大変高度なことですから、そこまで行き着くことは大きな成長だと思います。
でも、そこで止まってしまうことは多いと思います。
逆にそれ以上に進むことは、本人にその選択が出来るかどうかにかかっていると思います。
親が出来ることは、せいぜい外側を取り繕うことくらいだと思います。一通りのことがそこそこ出来て、最低限のマナーを身につけるくらいのことしか周囲からの圧力では出来ないと思います。
それ以上の変化、つまり、内から突き上げるような変化は本人がその気にならなければ出来ないことだと思います。
それが出来るタイプと出来ないタイプがいるわけですが、もし、roboがそれが出来ないタイプなら、そういうタイプの人としての人生を歩むしかないと思います。
roboも自ら変化を起こし始めた部分もありますが、発達障害をお持ちで、あまり問題なく社会で過ごしている人に比べると、まだまだ不充分です。
変化への意識がまだらで、大事なポイントをまだつかんでいないように思います。
もちろん私はroboに大事なポイントを自らつかんでもらいたいので、あきらめずアプローチを続けるつもりです。
でも、こればかりは、本人次第だなと思います。克服した方々は誰に教わるわけでもなく、自分でその必要性に気付き目覚めた人達だからです。
げんちゃんとroboも自ら内なる変化を起こすようになってもらいたいですね。2人とも、まだ入り口地点に立っているところだと思いますが、入り口くらいにまでは、辿り着いたようにも思いますね。
ロボママさん
ほんとにそうです。ロボ君とげんちゃんの違いは、つながりを考えられる、られないの違いだと思っています。それが、IQに反映しているような気がします、
げんちゃんは、学習も、つながりをとらえようとしない、という大きな問題があって、何度やっても、いつも一から、みたいなとこがあります。
意識改革とは、彼の、その思考のわがままなくせをかえていくことだなあ、と思っています。
自分のその考え方のくせは、間違っている、ということを、感じないと、変えていこうと思えないと思います。
そのために、げんちゃんは、おかしいよ、そんなんでは、精神病院に行くしかないよ、と、過剰な演出をかけていたわけです。
げんちゃんは、その思考のずれを、何が悪い!って、図太いまでに、みずから肯定しているようなとこがあって、そうである以上、内部変革は無理だからです。
あなたの思考方はおかしいよ、というのを、しんから感じる必要があるんですよ。げんちゃんは、ほんとに図太くて、そこが、しょうしょうではうごかないので、とっても大変です。
やたらほめたり、これていいと思い込むと、へん、なにが?みたいになります。
ここは、げんちゃんの特殊性かもしれないなあ、と思います。
でも、核心のところの改革ですよねー、
返信をありがとうございます。
核心のところの改革は、論理的思考力を必要とするのですが、げんちゃんの場合、作文を読ませていただく限り、その力もある程度ありそうですよね。
でも、今は、その思考力を別の方向に使っている気がします。確かに興味の幅の広さや言語能力の高さから、自閉症自体は薄いタイプな気がするので、意外と周りも見えているのだと思います。
その力をメタ認知能力にも使って、しかも、自分はどうすれば変われるのか、ということに思考力を使ってほしいですね。
でも、roboもそうなんですが、げんちゃんも性格的におっとりしていて、根本的に負けず嫌いではないので、このままで、いいかぁと流れてしまうところがあるんでしょうね。
そこがいいところなんですが、改善のエネルギーは湧きにくいですよね。困ったもんですね。
ロボママさん
そうなんですよ~。次の記事に書いてみました。
げんちゃんの性格の頑固さ、しぶとさだと思っています。
つながりをとらえるには、広がりがいりますが、げんちゃんは決して広がりがないわけではない。それなのに、一つ一つをつなげようとしないのです。きわめて表面的なところでとらえて、それで何とも思わない。彼のもっとも致命的な傲慢ともいえる性格です。
自分のそういう思考の癖を、正しいと思っている節があります。人にたいがい迷惑をかけて、こちらに甘えまくっていることをとらえようとしない。だから痛い目にあわせないとなかなか思い違いをかえようとしない。
今は、そのために圧をかけないとまずいと思います。
自分のようなことをやっていたのでは、将来、精神病院入院になりますよ・・・・私たちはげんちゃんにせまっております・・・・なぜなら、いきあたりばったりの思い付きで、感情任せに突き進むなら、結果はそういうことになるでしょうからね~。警察ざたになることだって十分ありえます。人としての当たり前のつながりを考えてほしいですよ。ほんとに!