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自分の子が発達障害?
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発達障害は「できる」「できてる」を誤認しやすい


雑誌に載ってた、きれいな女の人を描くのに挑戦してみました。

発達障害げんちゃんの「できる」は、普通の人の「できない」!

げんちゃんには、たくさんの“できる”があり、同じ数だけの“できない”があります。

たとえば、げんちゃんは朝ご飯を作ることができます。それはもはや日課になっていて、特に美味しいというわけでもないルーティンな朝食ですが、誰かに、「朝ご飯を作れる?」と聞かれれば、私は「作れるよ」と答えます。

しかし、「できる」という言葉には、実はものすごく多くの段階が含まれています。
げんちゃんは、朝ご飯を作ることはできても、美味しく味付けしたり、冷蔵庫の中を見て「何を優先的に使うべきか」判断したりといったことは、無頓着。
また、その日のスケジュールに合わせて臨機応変にメニューを変えたり、朝の出発時間を考えて、手順を判断する工夫もありません。

朝ご飯作りは、そういう意味ではできない、と言った方がいいのかもしれません。

電話にしても、同じようなことが言えます。
誰かに電話して用件を伝えられるか?と聞かれれば「できる」と言えるでしょうが、全く「できない」とも言えます。
つまり、社会で求められる水準には、彼の「できる」は到達していないのです。

「できる」という言葉には、とても広い範囲が含まれていて、極めてざっくりとした言い方だとわかります。

電話でのもどかしさ

最近、電話をめぐるトラブルが、私を本当にイライラさせます。

例えば、げんちゃんが電話をかけてきて、ある用件を伝えたとします。私はそれに対して、もっと詳しく聞きたくて問い返します。すると、げんちゃんは電話の向こうで沈黙します。

先日は、塾のスケジュールを聞きました。すると突然彼は黙り込んでしまうのです。

「もしもし? もしもし?げんちゃん!」と呼びかけても、全く声が返ってきません。
しばらくして、私はようやく察します。
――ああ、スケジュール表を取りに行ったのだな、と。

でも、普通ならこういう時、「ちょっと待っててね。スケジュール表見てくるから」と一言添えてから電話を離れますよね。
げんちゃんは、たったそれだけのことをしようとしません。

戻ってきたげんちゃんが
「わかったよ」
とスケジュールを話し始めるときには、私はもう怒り心頭です。

「電話口を離れるとき、私はあなたを見ることができないのよ。いくら呼んでも答えない。何も言わずに電話を離れるなんて、相手に対して非常に失礼なことなのよ」
と私はシャウトするはめになります。

でも、朝それを注意したのに、夜にはまた同じことを繰り返しました。
全く自己中、やる気なし、相手への気遣いまったくなし。立ち位置変換できていないことの典型です。
また、あるときは、自分の用件だけ言って、私が話そうとすると
「切ります」
と言って、プチっと切ってしまう――本当に自己中心的です。自分の立場しかありません。

「できる」と勘違いする危うさ

何度も怒り、注意しても、時間が経つとまた繰り返します。
相手の気持ちや立場を想像することがないのだと思います。

とはいえ、話すことはできるし、根掘り葉掘り聞けば要件も伝わるわけです。
言葉に表現すれば、「できる」と言うこともできるのかもしれません。

発達障害の人の「できる」は、普通の常識的な「できる」からはずれがあると思います。
彼らが、いろんなことにおいて、「できる」と、認識していることが、時において、まったくできていないことが多々あります。

IQによっても、大きく異なるでしょうが、彼らの多くは、世の中の人が、「できる」と言う場合に、イメージすることより、ずいぶん低いところで、「できる」を認識していると感じます。
先ほどの話で言うと、げんちゃんは、電話をかけられる、できる、と思っているようだし、料理もできると思っていると思います。

「できる」の誤認はあつかましさを生む

この前置き付きの「できる」は、世の中の発達障害児の母親たちもよく使っています。
たとえば「お子さんは買い物はできますか?」と聞かれたら、何気に「できる」と答える人も多いでしょう。

でも実際には、複雑な返品処理や、お釣りの計算など、買い物行動にはさまざまなパターンがありますが、それらすべてに対応できるか?となると、げんちゃんのような子は、ほとんど誰も「できる」とは言えないのではないでしょうか。

しかし、どこか母親は、ずいぶん低いレベルで、できる、と言う言葉を使ってしまいます。私さえそうです。友達に
「げんちゃん朝ご飯作れるの?」
と聞かれれば、うんと答えるでしょう。しかし、そういう「できる」と言う言葉は、時にげんちゃんに誤解を与えます。げんちゃんは、限定付きの「できる」を、社会全般的にみんなが思う「できる」に翻訳してしまうのです。

げんちゃんの傲慢さの一つは、そのずれにも起因すると感じています。できていないのに、「できる」と思っているのは、世の中の人の求める「できる」を理解しようとしないからです。
世の中をのぞいて、ほんとうの「できる」はこういうことか、と自分の中に取り込もうとしないからです。

支援現場でも起きる「できる」の錯覚

この「できる」問題は、自立訓練の現場でもよく起こります。
多くの素人の支援員さんたちは、げんちゃんたちが条件つきで「できた」ことを「できる」と表現してしまうのです。

母親も、限定的な環境での「できる」に安心してしまうことがあります。

しかし、その「できる」は非常にレベルが低いものです。
そしてその誤解は、げんちゃんのようなタイプにとって非常に危険です。

げんちゃんは「自分はけっこうできる」と思い込んでいます。
でも、実際には全くできていないのです。

勘違いが招く社会的失敗

できると思っているから、確認もしない。
何でも自分で勝手に進めてしまう――そういうことが多々あります。

げんちゃんの友人にも、似たようなタイプの子がいます。
その子は障害者枠で有期の仕事に就職できた経験があるため、「自分はできる」と思っています。
彼は自立訓練の事業所の訓練内容を見て、こんなことできるのに行く意味がわからない、とやめてしまいました。(事業所のレベルの低い指導内容が、”できる”の誤解を生んでしまうのも確かです。)
でも実際には、彼のできることはごく限られており、世間一般の水準には程遠いのです。

彼はその後、ハローワークに一人で通い、新しい仕事を探しましたが、ことごとく不採用。
おそらく、彼の“傲慢さ”が表面に出てしまっていたのでしょう。

「できる」の誤認が人生を狂わせる

「できる」の誤認は、発達障害の人にとって非常に危険です。
社会に出たとき、大きな障害となります。

だからこそ、「できる」は限定付きではいけません。
常に「本当にできる」ことを基準にして、それに対して自分が今どこにいるかを認知させ続ける必要があります。

げんちゃんは、自分が「できる」と思っているために確認をしない――これは大きな問題です。

細かく分析し、伝えることの大切さ

中にはできてるのに、できていない、と間違った認識で落ち込む子もいるかもしれません。同じ誤認でも、逆バージョンです。

そういう子に「できていない、」あるいは「できてる」と言うだけではダメで、何がどうできていないのか、逆にどこができているのかを丁寧に分解して認めてあげる必要があります。

でも、そうした細かい指導を、一般の福祉施設で実現するのはとても難しいのです。
「できましたね。いいです。」

的な、大味な言葉をつかってしまうのです。

だからこそ、私は自立訓練の人に、このことを丁寧に説明し、指導の仕方を細かく伝えています。

ま、ほんとに、めんどくさいの一言です。普通の人は、そんなの経験でわかってきますからね~。(泣き)

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